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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
陰惨の過去持つ国にて
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9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ(9)

 着々と、視界の自由が失われていった。


 化け物が、ほとんどを占めている。その反面で、耳が捉えるのはファーガスとの剣戟だった。激しい、斬り合い。苦戦させられていた。予想以上に、ファーガスは強かった。


 彼は、剣も盾も量産品を使う。壊れても別にかまわない、というスタイルは、敵にするとひどく厄介だった。ただ、物量としての威力を強く意識した攻撃。一撃一撃の脅威は、平静よりも視界の狭い総一郎には一際効果があった。


 それが、総一郎には嬉しかった。


 ファーガスとの手合わせ。何度かするたびに、彼は僅かずつ強くなっていった。いずれ追い付かれると一時期焦ったものだ。今は、ただ、我が子の成長のように嬉しい。


 剣が、迫りくる音。それに反応して、総一郎は避けた。そして、次の一手との間に突きを出して怯ませてみる。分かりやすく、風鳴りが止まった。もう少し敵の様子を把握する訓練をしておけと、忠告してやりたくなる。今は特に攻め時だろうに。


 距離が、取られた。ぼんやりと、少し離れて立っている事が窺い知れた。手加減の具合をどうしようかと考える。本気で戦っては、ファーガスも持たないだろう。


 悠長に考えていると、再びファーガスが駆け寄ってきた。そして、彼の陰がぶれる。それが投げつけてきた盾であると分かるよりも先、とっさに避ける。


 ついで、退路を断たれたことを知った。


 一閃。避けきれない。当たった。だが、それは恐怖により肥大化した幻影だ。


 頬に、傷が出来た。つぅ、と伝う感触がある。一瞬、信じられなかった。ここまでの実力を備えているとは、思わなかった。


「……随分と、強くなったね」


 笑いかける。ファーガスは、警戒を解くそぶりはない。それでいいのだ。――ああ、本当に強くなったね、ファーガス。


「ちょうど良かった。手加減はしたくなかったんだ。今の君なら、魔法を使っても簡単には死なない」


 風魔法。うねり出す。ファーガスは素早く重心を落として、硬く剣を構えた。投げつけてきた盾も、すでに装備しなおしている。面白い戦い方だ。とことん、武器を使い潰していくつもりらしい。


 総一郎は、幻影に悩まされながらも楽しみ始めていた。ファーガスの、著しい進歩。肥大化した剣先。それは、総一郎が正真正銘怯んだ証拠だ。天才と謳われたネルでさえ、そうはならなかった。かつては手酷くやられたが、それでも総一郎に、命に届く一撃だと思わせるものではなかった。


 魔法。カーシー・エァルドレッドは、これを使ったら敵ではなくなった。ファーガスは、耐えてくれるだろうか?


「今度は、こちらから行くよ。ファーガス」


 総一郎は言い放つ。自らを殺しうるかもしれない親友に向かって笑みを浮かべながら、光魔法で姿を消した。


 どのように仕掛けに行こうか、半ばワクワクしながら考えていた。これはどうだ、と様々な手管で攻め入る。だが、彼はそれに怯むことなく総一郎に肉薄し、至近距離を保って居た。その効果は絶大だ。総一郎自身を巻き込むため、ほとんどの魔法が使えなくなる。上手い返しと、それを成し遂げる根性に、思わずやられたと心中で唸ってしまう。


 そんな読み合いにふと、昔の事を思い出した。囲碁。よく、ファーガスとやった。


 陽だまりの縁側。ヒノキ製の足つき碁盤に向かい合う幼き日の二人。タマが彼の頭の上に乗っていて、偶にシルフィードだったり天狗だったりが覗きに来た。彼は、亜人に好かれた。総一郎に対して加護を渋った河童でさえ、日本人でない事を惜しんでいたほどだ。


 頭の中が、過去に戻る。緑鮮やかな夏。四季の中でも、日本の印象は夏が一番強い。二度目にファーガスが訪れたのが、夏だった。


 その時の中でも、将棋を打った時の記憶がよみがえった。彼に、人食い鬼の事を詳しく尋ねられた時の事だ。


 対戦相手の居ない状況下で、好敵手になることを期待していた。しかし結局、一局打ったきり飽きて、別の遊びをしようという事になった。案らしい案は浮かばず、確かテレビをつけたのだ。すると、人食い鬼がまた幼稚園にて事件を起こしたというニュースがやっていた。


 困惑するファーガス解説をし終わってすぐに、救出成功の放送が流れ、ファーガスは唖然と口を開けた。それでどういう事だと問い詰められ、一通り、自分の経験談、被誘拐経験豊富な図書な話を持ち出して、説明した。


 するとどうだろう。ファーガスは酷く憤慨して、『人食い鬼など皆殺しにしてしまえばいい』というようなことを言いだした。昔は、総一郎も疑問に思ったことだ。種族的に天敵な彼らを、どうして日本人は保護するのだろう、と。


 それに、自分は何と答えたのだろう。自分でも、意外な言葉がその時飛び出たのだ。ファーガスはぽかんと呆気にとられ、総一郎もまた同様に、自分の本音が知れて驚いた。


 そう。確か、あの時――このように言ったのだ。



『殺しちゃだめだよ。彼らだって、人間なんだから』



 ――人間なものか、と今は思う。人間の皮を被った化け物が跳梁跋扈するこの世の中だ。見るもおぞましい化け物の皮をかぶっているが、中身は善良な人間である者など、居てたまるものか。


 反面、だがとも思うのだ。


 あの時、そのように言ったから。


 ファーガスは今、憎しみ以外の感情をもって総一郎を止めに来てくれたのではないのかと。


「ファァァァァァアアアガスゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウウウウウウウウウゥゥゥ!」


「ソォォォォオオオオオイチロォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオォォォ!」


 互いに声高く名を呼びあった。押されてもいた。足首を半分以上切り込まれ、体勢も尻もちなどという最悪のものだ。


 総一郎は、駆けてくるファーガスを聞きつつ思う。本当に、強くなったと。視界は化け物一色で、頭痛も激しく、走馬灯染みた物さえ流れるような状況だったが、嬉しさは薄れなかった。そうして、微笑むのだ。


 ファーガスは、きっとカバラさえ破ってくれる。


「……はっ?」


 盾を投げられ、注意を逸らされ、トドメの一撃が迫りくるところだった。総一郎はただ、指を折り曲げただけだ。それだけで、アナグラムはそろった。ファーガスの剣は根元から折れて、地面を滑っていく。安物でなければこんな事は起こらなかった。


「すまなかった、ファーガス。模擬戦と実戦を同じにしては駄目だね。君は、遥かに予想よりも強かった。魔法は十中八九使わないだろうと思っていたのに、使ってまで僕は追い込まれた。近距離戦には向かないんだね、アレ。勉強になったよ。まさか自分を巻き込みかねないから、ほとんど使えないとは……」


 言いながら、傷を治して立ち上がった。竦みを見せるファーガスに、「生物魔術だよ」と告げると、彼は唖然と目を見開いていた。しかし、諦めるなファーガス。もう少しだ。君の剣は、もう少しで僕に届くから。


 総一郎はもはや現世から遠ざかってしまった眼を精一杯光らせて、ファーガスを威圧した。今自分にできる、全てを出し切って死にたかった。そういえば、と思う。ナイの言う破滅は、今自分の求めているものと同じなのではないか。


「……ああ、なるほど」


 口の中で、呟く。――狂って、止まれなくなってしまった自分を、信頼できる誰かに全力で止めてもらう。それは、あまりに贅沢な望みだ。だというのに、実現しようとしている。ナイがそれを求めていた理由も、分かる気がした。


 これが破滅だというのなら、悪くない。


「随分と余裕かましやがって。何だ? まだ奥の手は残ってるってか? というか、もしかして今剣が壊れたの、ひょっとしてお前がやったのか?」


「うん。そしてそれが奥の手だ。ただし、安心してくれ。これで打ち止めだから。……えっと」


 指を振って、空気を練った。アナグラムは、こんな所作でも読み取れる。だが、あまりに迂遠なやり方だ。普通は使わない。それでも使うのは、それ以外の手段がないからだ。


 総一郎は、今、間違いなく全力を出している。そして、全力を出し切った先で、ただどうしようもない敗北を迎えたかった。


 時間をかけて読み切ったアナグラムに従って、ファーガスに向け上段に構えた。頭上に、天を指すように木刀を掲げる。


「来いッ! ファーガス!」


 最初は気を張って、数秒後に一瞬ほつれさせる。それでファーガスが良いように釣られる事は知っていた。顧みの無い一太刀を食らわせてくる彼に反転。紙一重で避け、三回の打撃を入れる。木刀では、人は容易に殺せない。


 形成は、その一瞬の攻防で逆転した。


「……やっぱり、『これ』は少し卑怯だったかな」


 余裕ぶって言うが、総一郎にはもはや一刻の猶予もない。頭痛は限界寸前にまで達し、一秒ごとに意識が切れかかる。その先に待つは、荒れ狂う悍ましき神の呪い。そうだ、あの化け物は神なのだ。零落し、迷宮にて力を蓄え続ける神なのだ。


 ――あと、一分。総一郎は、自らの限界を知った。あと一分だから、耐えきってくれとファーガスにエールを送る。そして自分にも、あと一分で苦しみは終わるのだと慰めを囁いた。


 睨み合う。膠着。しかし、すぐに機は来る。そこで、望むべき未来が訪れるのだ。もだえ苦しむほどの痛み、心が壊れそうなほどの恐怖。その中で、成長したファーガスの強さが、その安っぽい銀色の剣が、かつての和やかで例えようもない幸せな記憶が、友情が、輝いていた。


 総一郎は、薄く相好を崩す。


 そこで、アナグラムが狂った。


「……え」


 空気の手触り。それが、一瞬でねとつく気味の悪い物に変貌する。何が起こったのか、なかなか理解できないでいた。そして、総一郎はファーガスの声を聴く。


「―――――――――――――――――」


 全てを、理解した。


 駆け出す。だが、距離が距離だ。風魔法の展開すら間に合わない。『その魔術』は、二秒もかけずに発動する。止めてくれ、ファーガス。それは、それだけは駄目なんだ。ああ、あああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……――――――――――


 全身に走る痛痒。全身に水ぶくれができ、歩くたびに足のそれが潰れて、立ち続けることが出来なかった。倒れると、濡れ雑巾の落ちるような音。体を覆う血豆が一斉に破裂し、総一郎を不能にした。


 『破壊』。この魔術は、そんな名前だった。


 ナイや、邪神を信じる愚かしき者どもにしか、知るはずのない魔術だった。


「(ファーガス、ファーガス……!)」


 言葉にしようにも、声が出ない。ただ、体中に走る激痛に身を悶えさせる。ファーガスは総一郎の無残な姿に恐れを抱いたのか、衝撃に揺れた、か弱い声で呟いた。


「……ごめん。ごめんな、ソウイチロウ……。ちゃんと、殺してやれなくて。俺が、お前を止められるほど強くなかったから……!」


 それは、総一郎にとって死刑宣告のようなものだった。


 ファーガスの屈服。それは、総一郎に対してのみではない。彼は、きっと『ナイ』にも屈服したのだ。ナイが勝負だのと言っていた理由が、ようやく分かった。これは、勝負だった。決闘だった。『ナイ』が選んだ『祝福されし子供たち』を戦わせ合う、悪趣味な見世物だった。


 勝敗は、決してしまったのだ。もはや総一郎に死の選択肢はない。破滅に身を任せることなど、出来ない。


 ファーガスは、ベルと抱き合って泣いているようだった。総一郎は、痛みが消えたのを確認して立ち上がる。息を殺して、近づいた。泣きじゃくる声は高く、きっと多少音を立てても気づかないのだろう。


 だから、気づかせてやることにした。ファーガスが選んだ道が、どれだけ愚かしい物だったのかを知らせてやるために。


「……五月蝿いんだよ、お前。しばらく黙ってろよ」


 まず頭に、手を当てる。激しく、放電した。総一郎の脳を傷つける物を精神魔法で退けて、化け物だけを焼き殺す。神は生き返るものだが、これでしばらくはもつはずだ。


 それで、幻覚は消えた。最初から、こうすればよかったと思った。視界が、自由になっている。少し離れた場所に、二人が抱き合って泣いている。


「……ファーガス、僕は」


 呪文。所作。心の中で唱え、行った。そして、深淵の息吹を彼に届ける。ファーガスは、肺のみを奪われて、海水に引きずり込まれた。両手を地につき、海水を吐き出している。これが、君の選んだ道なのだ、ファーガス。


 ベルが、彼の身を案じて叫んでいた。痛ましい光景だ。総一郎はもはや何を恐れることもなく、大きな声で彼に迫る。


「『破壊』と言う魔術は、見た目は派手だけれど相手にダメージを与えるものでは決してないんだ」


 ファーガスの動きが、ぴたと止まる。ベルがこちらを向いて、「ひっ」と声を呑む。


「ただ、相手の機能を一時的に破壊する。痛みを起こす手錠をかけるようなもので、しかも数十分もすれば解けてしまう。僕を殺すんだったら、この上でとどめを刺さねばならなかった」


 そう、そうすれば、こんな事にはならなかった。ファーガスが『ナイ』を利用しただけならば、こんな意趣返しをする必要もなかった。


「だけど、これはそれ以前の問題だ。何故、君がこの呪文を知っている? ……答えは一つだ。ファーガス。君が、禁じ手を使ってしまったことに他ならない」


 邪な神々の御業。それ自体を否定するのではない。その歪な魔術に『使われること』がいけないのだ。


 ファーガスは、こちらを向く。そこに見える感情は、怯え、怖れ、後悔。


「ファーガス。僕は、君に殺されたかったんだ。あんな奴らに騙されて死んでいく運命の君に――君の死体に、殺されたかったわけじゃない」


 木刀を振りおろし、総一郎は親友の命を奪う。確かな手ごたえ。陥没したその頭蓋。


 英雄と呼ぶにはあまりにみすぼらしく、ファーガスは死んだ。


「……あ、ああ、あああああああぁぁぁあああああああ!」


 ベルが、顔を覆って叫び声を上げた。亡骸を抱きしめて、その名を呼ぶ。もはや、彼はこの世に居ない。総一郎は、その光景を黙って見つめ続ける。


 満月が、真上にあった。月。ルナ。月は人を狂わせるという。ともすれば、この惨状は全て月の所為なのかもしれなかった。


「何で、何でファーガスは、死ななくちゃならなかったの……? 何で、何で……」


 ベルの、悲しき声。総一郎は、無感動な声で答える。


「僕が憎いなら、君が僕を殺すと良い。ファーガスの時のように抵抗する気が、もう起きないんだ」


「君を殺して、ファーガスが戻ってくるの……?」


「――そう、だね。ごもっともだ」


 ベルは、ファーガスを抱きしめて泣いているばかりだ。その姿を、悲しく見続ける。だが、ふとした瞬間に疑問に思うのだ。


 今の返答は、どういう意味だ。


 憎いと、思わないはずがないのだ。ベルにとって、総一郎は仇だ。愛しき恋人の仇。立ち番が逆転し、ローレルが総一郎の亡骸を抱きしめて泣いているのだとしたら、きっと彼女は是が非でもファーガスを殺そうとしただろう。ローレルを甚振られた総一郎だから分かる。愛しき人を殺すものは、自分を殺すものよりも憎いのだ。


 しかし、今の返答は何だ? 憎しみは何も生まないなどという言葉を、人間が吐けるわけがない。


 総一郎は、足場の揺るぐような錯覚に襲われた。ベルを、見つめる。すると、彼女はこちらを何気ない視線で見返してくる。


「……何? どうしたの?」


 友人に対する態度。普通で、それ故異常だった。戦慄と共に、総一郎は尋ねる。


「……ねぇ、ベル。君はさっき、僕を殺してもファーガスは帰ってこないから、殺さないと言ったんだよね?」


「う、うん……」


「じゃあ、ファーガスと戦っている僕を殺せば、それで良かったんじゃないのか? 普通、何の援護もしないなんておかしい。騎士候補生はみんな、常に武器を携帯してるんだから。君は、そうすべきじゃなかったのか……?」


「………………………………………………………………………………………………あっ」


 その小さな驚きが、総一郎を激昂させた。


「クリスタベル・アデラ・ダスティンッ!」


 右腕を伸ばし、彼女の襟首を掴む。身を躱され、距離を取られかけた。だが、許さない。右腕は修羅の腕だ。伸ばせば、十分に捕まえられる。


「う、嘘、何で腕が伸び」


「黙れ。余計な事をしゃべるんじゃない」


 引き寄せる。強く掴み、逃げられないようにする。


「何故、僕をあの時殺さなかった。君なら、殺せただろう。ファーガスが、知恵を絞って僕の好きにさせないようにして、あれだけ頑張って見せたんだ。君ほど強ければ、僕を殺せたはずだ」


「そっ、そんな事、出来る訳がないじゃないか! 君はこの学園で一番強くて、私たちの友人で……!」


「友人と恋人が殺しあってるんだぞ! 友人なんかのために、君は誰よりも好きな人の事を見殺しにするのか! 何で、僕を殺さないんだよ! だって、だって、なぁ……?」


 アナグラムが、激しく入り交じり合う。精神魔法でそれらを制御し、統制し、組み替えていく。そして、最も救い様のない結論が、総一郎を打ちのめすのだ。


「ベル、君は、万全の状態の僕よりも強いじゃないか……?」


 その言葉に、少女は激しく動揺した。それは、彼女が生涯隠していくべき秘密であるようだった。彼女は、総一郎のようにドラゴンには勝てない。だがドラゴンに殺されることもなく、そして総一郎を殺すことが出来た。途轍もない、強さ。ファーガスとの馴れ初めを機に、隠すことを決めたその秘密。


 彼女を掴む力を弱めると、ベルはそのまま脱力し、地面に座り込んだ。自室呆然として、俯いている。自らの秘密のためにファーガスを見殺した少女。総一郎は、侮蔑をもって事実を告げる。


「ファーガスは、君の所為で死んだんだ。邪神の誘いに気付いていても手を出さず、僕との一騎打ちにも手を出さなかったから、ファーガスは無力に死んでいくしかなかった。チャンスは、あっただろうが。僕とファーガスが戦っていた十分近く、君は一瞬でも覚悟を決めれば、いつだって僕を殺せただろうが!?」


 弓を引き、放す。聖神法も何もかかっていない矢で、きっと総一郎を殺された。そのアナグラムも、読めなかっただろう。ほとんど盲目で、疲労して立ち止まることも多かった総一郎など、いい的だ。あとは、外さないだけでいい。ベルが、外す訳が無い。


 怒鳴りつける。だが、それ以上の事は出来なかった。カバラでその全貌を暴いて、初めて分かったのだ。ベルの、その並外れた強靭さを。今この瞬間でさえ、彼女は、総一郎を殺せる。自分の身が危険になれば、流石に彼女も動き出すだろう。


 総一郎の怯えは、敵の武器を肥大化させて目に映す。ベルは打ちひしがれて泣いていても、その体から漏れ出る凄味が、彼女の周囲を禍々しく歪ませていた。


 忘我の時間の中、ねぇ、と彼女は言う。


「私はね、ファーガスのために、隠すことにしたんだ。ファーガスが私の為に強くなるって言ってくれたことが、堪らなく嬉しかったから。オーガに襲われて、数日間声も出せなくなったなんて嘘。助け出されて、ご飯食べて一眠りして、起きたら悔しくって弓矢を持って外に飛び出したの。その山のオーガ、全滅させるまで気が済まなかった。でも、終わってから気が付いた。そんな野蛮な女の子、誰も好きになってくれないって。ファーガスが私を好きになってくれたのだって、私が淑女の身振りを覚え始めたから。それまでは、強くなる意味としての扱いしか受けなかった。男友達くらいの、雑な対応しかしてくれなかった。決して好きな女の子に対する物じゃなかった」


 彼女は、震える。もう一度、「ねぇ」と言う。


「私は、どうするべきだったのかな。ファーガスに嫌われてでも、ファーガスを助けるべきだったのかな」


「僕は、そうした。ローレルが幸せになるために、ローレルの記憶も、彼女が僕と一緒にいたことを知る人間の記憶も、すべて消した。僕の幸せなんていらなかったから。ローレルが普通に生きてくれさえすれば、それで良かったから」


「……そっか。そうだよね。そうすれば、良かったんだ」


 ベルは、顔を上げる。その表情を見て、総一郎は凍りつく。


「じゃあ、これからはそうするよ。助言、ありがとう。ソウ」


 彼女はファーガスの亡骸を担いで、再び学園に歩き去って行った。総一郎はその姿を、目を剥いて見届けた。彼女の姿が消えてから、息を吐ける。


「……修羅」


 カーシー・エァルドレッドなど、その名に冠する事も相応しくなかったのだ。クリスタベル・アデラ・ダスティン。彼女こそ、本物だ。


 ふらりと、総一郎は歩き出した。門の外。ファーガスを殺したからには、もはやこの場にとどまることは何の意味も生まない。ローレルの安全も確保した。公式の手続きを踏めていないが、そんなことを言っている場合ではなかったのだ。


 立派な、門。夜深い今では、魔境の門であった事がことさら強調されて見えた。その先に、何者かが立っていた。身を凝らす。総一郎は、震えた。


「……お待ちしておりました、救世主様」


 恭しく、腰を折る少年。ギルバート・ダリル・グレアム二世。総一郎は、思い出す。消されていたはずの記憶を。堪らず叫び、駆け出した。


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