エレミアの魔導士たち(後編)
「アリエス。ここでの仕事は終わった。早々に帰ろう」
城内に用意されていた部屋に戻るなり、彼女は瞳と同じ色の薄いカフタンを脱いで椅子の背にかけ、そのままソファに身を投げ出すように倒れこんだ。
部屋は、窓から差し込む月明かりのみ。それでも結構明るい。
ソファの上で、シンプルなキャミソールドレスの裾を乱し、細い肩を剥き出しにしたその姿ははっきりと見える。
アリエスは、カフタンを手に取ると、ソファに無造作に投げつけた。
ばさっと顔を覆われたのが予想外だったのか、「んん」とくぐもった呻き声が上がる。
「俺がいるんだ。あまりだらしない恰好をするな」
「んー……」
もぞもぞと起き上がると、渋々と袖を通しながら、どことなく拗ねたような目で見て来た。
「堅苦しいの嫌いなの知ってるくせに。時の魔導士はどこに行っても大げさな扱いだから……」
「結構なことだ。俺はお前が無礼な扱いをされるのは我慢ならないからな」
正直なところを言ったのに、彼女――エレミアは困ったように肩をすくめた。亜麻色の髪が、するりと素肌を滑る。
「それはね。私が軽くみられるというのは、魔法都市の沽券にも関わるし、あなたにも悪いし。わかってはいるんだけど……。でもこういうのはやっぱり嫌なんだなぁ」
言いながら、通したはずの袖を抜いて、結局上着は脱いでしまう。
細く薄い肩だが、少女らしい丸みを帯びており、新雪のようにうつくしい肌をしていた。
数秒迷って後、アリエスはソファのすぐ横に腰を下ろした。男一人分の重みがかかり、座面が沈み込む。
そのまま、背もたれに肘をつき、自らの頭をしんどそうに支えながらエレミアに向き直る。
「目の毒なんだ。その辺、いい加減にわかれよ」
「毒……!? 何が? まさかこの格好!? 正式なドレスだよ。変だ変だって、昔みたいに怒らないでくれる?」
「変じゃない。似合っている。他の男には見せられないくらい可愛い」
かわ、っと言いかけて、エレミアがふきだした。
「どうしたの、アリエス。そんなこと今まで言ったことなかったのに。いつだって自分が一番美人みたいな顔していたじゃない。実際、そうだし。アリエスより綺麗なひとなんか、会ったことないもの。アリエスは世界で一番綺麗だよ」
言いながら、ほっそりとした腕を伸ばしてアリエスの顎に指先で軽く触れる。
されるがままになりながら、アリエスは今一度その目をまっすぐに見つめて、口を開いた。
「自分が何を言っているのか、わかって言っているのか。同じこと、俺がお前に言ったらどうするつもりなんだ。世界で一番可愛いって」
「ん~~、みっともない恰好はよせって随分言われたから、そこそこ可愛いくなったつもりはあるけど。世界で一番では、ないなぁ」
能天気な返事は、昔と変わらない。
(違う。そういう意味じゃない)
言いたい。
言えない。
目を閉ざして、大きなため息。
「……着替えて寝ろ。俺はここにいるから。あ、言っておくけど、雷が鳴っても俺の布団にもぐりこんでくるなよ。その状況で何もしない自信はないからな」
「うーん、今日のアリエスはなんだか絡むなぁ」
顎に当てられていた指が離れていく。
顔を上げると、大きく背中の空いた後ろ姿が見えた。
全部。
どこもかしこも綺麗だ。
磨き上げられた陶器のようにしみひとつない乳白色の肌が、目にしみる。
触れて抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
――当代のエレミアがその名を継いだ後、魔法都市は混乱の時代を迎えた。
魔導士の人数が少なくなり過ぎた。都市としての機能を停止し、「学院」の解体を決断する時期にきていたのだ。
先代の時の魔導士・光の魔導士とともに準備は進めてきたが、いざその時になると魔導士たちの反発は抑えがたいほどに大きく、エレミアにとってもアリエスにとっても辛い出来事が続いた。
その後……、
時の魔導士は、都市を出て、世界へと舞い降りた。
伝説の存在ではなく、肉体を持つ魔導士として、諸国を渡り歩くようになった。
万能の天才とばかりに先行したイメージのせいで、行く先々で持ち込まれる依頼は困難なものも多かったが、エレミアは「誰かの助けになるのならば」と立ち向かっていった。
(生き急ぐなよ)
どうして。何をしている。
そういうことの為に使う魔法じゃないだろう、お前が持っているそれは。
余計なことにばかり首をつっこんでいるように見える彼女にたまらずに言えば、あっけからんとして言い返されてしまったのだ。
「どうして代々の時の魔導士が、魔法都市ではほとんど観測されなかったと思う。みんなこうして都市の外に出ていたからだ。『時の魔導士の力は、異空間に存在する魔法都市を維持する為に使われている』なんて迷信なんだ」
よくわからない。
わからないが、面倒事を解決して歩くのは、時の魔導士の通常業務の一環らしかった。
だが、無理が祟った。
もともと初代に匹敵するとまで言われた大きな力の持ち主である当代のエレミアは、その力に押しつぶされるように「眠り」に入る時間が長くなってきた。
一度眠り始めると、五年、十年と目覚めないこともある。
起きていられるのは、わずか数日。その間に、まるで覚醒を待っていたかのようにふってわいた案件を片づけては、再び眠りにつく。
そしてまた長い時間を超えていくのだ。
今回は、十五年ぶり。起きて五日目。もういつ眠りについてもおかしくない。
眠っている間は時が止まるらしい。食事も水も必要とせず、年も取らない。
そのはずなのに。
(目覚めるたびに、うつくしくなっていく。息も止まるほど。ほんの少しずつでも、成熟していっているからなのか。それとも……)
元から、片時も目を離せないほどに、綺麗だったというのに。
同時に、気がかりなこともあった。
記憶が、持たなくなってきたのだ。
肉体の老化は止められても、絶えず魔法を使い続けている代償なのだろうか。目覚めるたびにごっそりと記憶が抜け落ちていっているのがわかる。
それでも、数日たてば昔のことを思い出し、こうして懐かしそうに話し始めることもある。
しかしそれもいつまで続くのか。
(今回、目を覚ました直後は俺が誰だかわかっていなかった。もしかしたらこの先――)
忘れてしまって、思い出さない日が来るのだろうか。
アリエス、と。
名を呼ばれることもなく、誰なのだろうと不思議そうな目で見られるだけの時がきてしまうのか。
初めて会ったあの日のように。
構わない。
初めての日に戻れるのなら。何度でもそこから繰り返せるのなら。
たとえ覚えているのが自分だけでも、彼女がいつかまた「アリエス」と名を呼んでくれる希望があるのなら。
ガシャン、と妙な音がした。
部屋から続く浴室だ。
聞こえた瞬間に弾かれたように立ち上がり、走り出している。
入口は開け放たれたままで、淡い薄紅色のドレスの裾が、タイルの床に広がっているのが見えた。
「エレミア!」
駆け寄って抱き起す。
血の気の引いた顔に、すみれ色の光が弱く差し込んだ。
「アリエス……」
嘘みたいに冷え込んだ肩を胸に抱き寄せて、歯を食いしばる。
(眠る予兆。また行ってしまう。俺を置いて)
唇を震わせながら、エレミアは掠れた声で言った。
「ごめん。そろそろ……」
「わかってる。いつものことだ。慣れている。ずっと側にいるから」
闇雲に言葉を重ねてしまう。まるで彼女よりも自分に言い聞かせるかのように。
(慣れてしまえ。怖がるな。彼女は今眠りに落ちても、またいつか絶対に目覚める)
それがいつかはわからない。
段々間隔は長くなっている。
もしかしたら、いつか、眠りに落ちたまま、二度と。
(考えるな。無理だ。耐えられない。心が壊れる。お前がいない世界なんか生きていられない)
「大丈夫。次に目を覚ましたときにも、俺がいる。そんな申し訳なさそうな顔をするな。大丈夫だから。安心して寝ろよ。何も心配しなくていい、大丈夫だ」
「アリエス……」
色味の無い頬に、すっと涙が流れる。
どうして泣くんだ。
呆然としたアリエスの頬に、細い手を伸ばして、エレミアが呟いた。
「何回『大丈夫』って言うの……? アリエス、泣かないで」
「泣いてない。泣いているのは」
「アリエスだよ。アリエスの涙が私に落ちて来る……」
雫がエレミアの頬に落ちて、滑って行く。
(……俺が)
「悪い。不安にさせた」
「そんなことない。ないけど……本当はね。置いて行きたくないんだ。長いよね、アリエス、何十年もひとりで何しているの?」
「エレミア」
これまで、彼女はその話には触れたことが無かった。自分が、触れさせないようにしていた。
ここにきて隠し切れず、言わせてしまった。
「アリエス、寂しいよね……? 私、大丈夫だよ。次に起きたときにアリエスの奥さんとか、子どもとか……」
「馬鹿なこと言うな。自分の命より大事な女がいる男が、他の女を幸せにできるはずがない。お前こそ俺のことなんか気にするな。起きていられる時間が短いのはハッキリしている。もし誰か好きな相手ができたら、そのときは」
いつ意識を失うかわからないからと早口で言ってしまったが、エレミアの指に頬をつんつんと刺されてさすがに止めた。
「それ、本気で言っているの?」
じっと見つめられる。何も誤魔化される気はないと言わんばかりに。
アリエスはエレミアの手を掴み、頬を寄せ、目を瞑って掌に口づけてから答えた。
「……今のは、嘘だ」
「うん」
手を弄ばれながら、エレミアは真面目くさった調子で言う。
「時間がないのに、嘘はよくない」
まったくもって。
掌に何度も口づけてから、「悪いな」とアリエスはふてくされて言った。
「アリエスのせいで、こう、安らかに寝られない」
「良かったな。もっとずっと起きていていい。いつまでだって付き合う」
「そういうわけにはいかないんだなぁ……。めちゃくちゃ眠いもん」
「そっか。やっぱりだめか」
彼女を蝕む「時」の魔法は、見逃してくれる気はないらしい。
何気なく会話をしていればやり過ごせるのかと、どこかで期待していたのに。
「さっき。何か話があるって言ってなかったっけ」
「いや、時間ないんだろ。次でいい」
「やめてよ……。戸棚の中に残していたパイの話とか、十五年後にされても迷惑なだけだからね」
まるでそんな馬鹿な話をされたことがあるかのように、眉をひそめて言ってくる。
(さすがにそこまで面倒くさい男じゃないぞ、俺は)
むっとするものの、あまり自信はない。何しろ口うるさく接してきた。遠い昔にそんな会話があったと言われれば、そんな気もする。
くすくすと笑っていたエレミアが、そのままゆっくりと目を閉じた。
「アリエス、いくね」
「行くなよ」
いつもいつも。恨み言なんか言わないで送り出してきたのに、この時はどうしたことか。つい。
「お前こそずっと俺のそばにいろよ。明日も一緒に目を覚まして、朝食の間に予定を確認して、いつもみたいに俺と喧嘩でもしてろよ。頼むから」
閉じたエレミアの瞼の下から、透明な涙が溢れ出す。
本当に、ひそやかな声で返事があった。「そうしたい」と。
それから、おそろしく緩慢な仕草で瞼を持ち上げて、エレミアはアリエスを見た。
「私の、本当の名前……。もう自分では思い出せない……。エレミアになる前の名前……。アリエスは忘れないで」
ゆっくりと、腕の中で身体を起こす。
何か言いたげに唇が震える。瞳からは涙が流れていた。
吸い寄せられるように、頬の涙に唇を寄せてから、唇を重ねた。彼女がこぼした吐息も余さずに胸の内に取り込む。
その日から時の魔導士は、何度目かの長い眠りについた。




