ただ愛のために
日が傾き始めた。
表門方面から予想した騒ぎが起きて、予想の範囲内だからと魔導士二人は動かなかった。
警戒はした。
それは、草を踏みしめて姿を隠すでもなく悠々と現れた。
「アリエス。久しぶりだな」
澄んで明るく、少年のような声だった。
魔導士らしいローブをまとうでもなく、大仰な格好をするでもない。腰には剣を下げている。ずば抜けて高いわけではないが、ほっそりとした長身で、女性と見まがう、ろうたけた美貌の持ち主。艶やかな蜜色の髪は肩を過ぎる長さで、後頭部でゆるく束ねてあり、瞳は紅。
名を呼ばれた大魔導士はわずかに目を細めて、その姿を見た。いぶかしむような視線を受けて、アレーナスの首席魔導士である「血と鋼」は笑みを深める。
「アリエス。いま、気づいた?」
ファリスが、剣を抜き放ってアリエスの前に立つ。それを楽し気に見てから、言った。
「エンデの元へ行った方がいい。私の魔法を受けたロアルド相手に、エンデ一人では分が悪い。死ぬぞ」
ファリスは無言で剣を構えたまま。
その後ろ姿を見つめてアリエスは「行け」と短く命じた。
ほんの一瞬の逡巡、ファリスは振り返り切らずに、アリエスに横顔をさらす。
それを目にしてアリエスは顔をしかめた。どうしようもなく、苦く。
「行け。振り返るな。エンデを生かせ。俺はここでは死なない」
「……行きます。ご無事で」
ファリスの視線はさまよい、唇がわずかにわなないていた。そのまま、アリエスの視線を避けるように駆けだす。
木立に姿が消える。
紅い瞳の魔導士『血と鋼』は、渋面のアリエスを見て笑った。
「ファリスは、母親に似ているんだ。私とは横顔が似ていると言われていたね。とはいえ、お互い自分の横顔を見る機会なんてないから、実際どの程度かよくわかっていないけど。どう、似ていた?」
からかいを含んだ声。アリエスは痛みを紛らわすようにこめかみを指で押した。
「どうして誰も、ここの魔導士二人は血を分けた親子なのだと、俺に言わない。あいつ、愛だなんだと言っている場合だったのか」
「私は『時』のドちびみたいな千里眼はないけど。アリエスはファリスに、実の親殺しのススメをして、後悔真っ最中ってところかな? いいねえ、相変わらずだ。ドちびも相変わらずなんだろ。二人でつるみはじめて何年だっけ。今日は何、私に耳が爛れそうな綺麗ごとを聞かせに来てくれたのかな。人を殺しちゃいけません、とかさ」
初っ端から、石を飲み込んだかのように口数を減らしたアリエスに対し、紅い瞳の魔導士は実になめらかに話して、くすくすと笑い声を上げていた。
「いつか誰かが私を殺しに来るとは思っていたけど、アリエスだったか。アリエスは私のことは嫌いかもしれないけど、私はアリエスのこと好きだよ。知ってた?」
「エイリード……」
思わずのようにアリエスの唇から旧友の名がこぼれる。
「古い名だな。私は『血と鋼』だ。この国に血禍を招き、この先も世を乱そうという者だ。ここで殺しておこう。それがいいよ。アリエスの手にかかるなら満足だ。ずっと待っていたかもしれない」
エイリード、「血と鋼」は紅く染まった瞳を見開き、唇には笑みを浮かべて歩を進める。
「ねえ……アリエス。殺しなよ。『時』が来る前に決着をつけてしまおう。どうせ『時』は弱ってるんだろ。見境なく魔法を打つから。死期が迫っているのは自分も同じなのにね。次の眠りはもうない」
距離を詰めて、毒を注ぎ込むようにアリエスの耳に囁く。
「一人でこの先を生きていくのは怖い? 怖いなら私がアリエスを殺してあげてもいいよ。どうせ繋いだって意味のない命だ。『時』を失って生きていくのは、君にとって本当に救いのない日々になるよ」
似ていると、思い知る。
おっとりとした微笑み方が、ファリスと重なる。どうして気づかなかった。
アリエスはためらいながら、手を差し伸べて、「血と鋼」を包み込むように抱きしめた。
「お前は救いのない日々に飽いて、世界を呪ったのか」
抱きしめられて、肩に顔をうずめながら、「血と鋼」は真っ赤な瞳を閉じた。
「……うん。魔導士の不文律を破った。人間を愛した。愛すべきではなかった。愛なんかいらなかった。間近で私が愛するものを喪い、正気を失っていく姿を見ていたせいだろう、私の子として生まれたファリスはずいぶん怯えている。かわいそうな子だ。きっと不老長寿を謳歌できない。人間の中で育ててしまったせいだ。私は間違えた」
「気安く間違いなんて言うな。あいつは、俺に愛を語ったぞ。この俺に、正面切って。愛のなんたるかを知れと。そういう奴だぞ。何が間違いかなんて、お前が決めてやるな」
「血と鋼」が剣を抜こうとしている。アリエスは、自分が殺されようとしていることに気づいている。旧友エイリードはそれを、優しさだと思っている。本気で思っている。
やがて終わる生を精一杯生きる人間たちを、友人を。生かさないのが、殺してしまうのが、優しさなのだと勘違いした結果が今の彼だというのか。
「私はね……。あいつの母親を見つけてしまって、本当に、徹底的に容赦なく愛し抜いたよ。彼女が私より先に年老いていくことなんか全然構わなかった。あんなに早く死ぬなんて思ってなかった。たったの数十年、一緒にいることも許されず、若いうちに彼女は死んでしまった。世界は私と彼女に何をしたのか、思い知ればいい」
「エイリード。愛する人を失う、どうしようもない苦しみの中で生きているのはお前だけじゃない。そういうのは」
「知っているよ。それが何。アリエスの綺麗事は疲れるよ。同じこと、お前は『時』を失ってからも言えるのか」
腕から逃れて、「血と鋼」は片手で抜いていた剣をアリエスに向ける。胸に切っ先を向けられて、アリエスはその顔を見返した。
その性質上「血と鋼」の魔法は争い事と親和性が高かった。長く堕ちなかったのはその温和な性格故で、堕ちてしまったのは大き過ぎる喪失故だったというのだろうか。
(魔導士が……。堕ちると決めた魔導士を止めることはできない。たいてい、道を外れる瞬間は静かだ)
多くの関わりがあった周囲の者たちが、彼を引き止められなかったのだ。
アリエスは、剣の先を指でつまんで、言った。
「『時』の持つ不老長寿は、お前の目的ではないな」
「血と鋼」が剣を軽くゆすり、アリエスの指は容易く傷つけられて血が流れた。
「『時』の魔導士が『生涯で一度だけ使えるという魔法』を所望する。その寿命が尽きる前に。私のために使ってから、死んでもらう」
簡単に、死ぬとか殺すとか。
死ぬとか殺すとか、そればかり。
「俺が。その言葉を『時』に向けられたら、絶対に許さないのは知っているよな」
紅い瞳に愉快そうな光が瞬き、唇からは笑いがこぼれた。
「知っているよ。お前自身より、ずっと深く深く知っている。ファリスに、愛を語られたって? 面白いよね。そのファリスに愛を教えたのは誰だ。私はお前よりずっと愛を知っている」
アリエスは剣の先を手で振り払い、離す。下に向けた指からは血が滴り落ちた。
「お前は無理な魔法を行使して、寿命を削った。のみならず『時』を目覚めさせておびき寄せその命を削った。よくも彼女を巻き込んだな。死ぬなら勝手に死ねばいい。殺してくれとか殺してやるとか。寝言か」
押し殺した声に、怒気が宿る。
「呼んだからといって、『時』が私に気づくかは半信半疑だった。本当に起きて来てくれたと知って、いまは少し考えが変わったよ。彼女はとてもいいひとだ。そしてあの唯一の魔法を、まだ行使してはいない。欲しいんだ、どうしても。それで『時』の寿命が尽きるとしても。欲しいんだ。いいひとの彼女なら私のためにくれるんじゃないかな?」
「誰にも」
ことさらに低く硬質な声でアリエスは宣言した。
「彼女は、誰にも渡さない」
アリエスの身体から白い光が迸り、黒髪が舞う。ばちばちと細かな雷がその身を取り巻いた。
「血と鋼」は笑みを深めて、アリエスを見返し、その指から滴る血を見た。
「そうなるよね。いいよ、殺し合おう。私達の世代では最強と言われた、『閃光』の魔導士。その本気の力、見せてもらう」




