Good morning
「おはよう」
「おはよう……ございます……?」
状況が。
まったく掴めない。
朝起きたら清々しい笑みを浮かべたジークハルトがいた。見たことのない部屋で。エリスの寝台ではなかった。昨日の夜、魔法の書に報告も書かなかった。昨日は外でごはんを食べた。それから、廊下でジークハルトが膝を抱えていて。それから──
順不同で昨夜の出来事を思い出してみるが、なかなか、何が起きたかが思い出せない。
(えー……と?)
着替えては……いない。寝乱れた程度で、違和感はない。
寝具の上に半身を起こしたまま、固まっているエリスの横にジークハルトが腰かけた。
「朝食はここに用意する。女官を呼ぶから、このまま身支度をするといい。俺は少し出ている」
「はい。えっと。いやあの」
すっと立ち上がったジークハルトが、そのまま行ってしまいそうで、エリスは思わず手を伸ばした。指先がジークハルトの指に触れた。焦って手をひくと、ジークハルトが小さく笑った。
「どうした。すぐに戻るぞ」
「ここはどこですか」
「覚えていないか。俺の部屋だが」
(なんでそんなことになったのでしょうか)
全然思い出せない。思い出せなさ過ぎて聞くのも憚られる。
「何も」
なかったですよね。心の中で聞いた。
「何かしても良かったのか?」
「なんで聞こえたんですか!? 声に出してませんけど!」
「今のは、流れでだいたいわかると思うが」
ものすごく楽しそうに笑っているジークハルトの顔を、エリスは呆然と見てしまった。
そこまで察しているなら、もう少しわかりやすい説明をしてくれても良いような気がする。流れを。流れというものを。
「心配しなくても、昨日は保護者付きだったぞ。そこも忘れてるのか」
「保護者……」
(お師匠様)
思い出した。会った。あの威圧的な圧倒的美貌、昨日久しぶりに見た気がする。いや、確実に見た。
「エリスは寝てしまったが、あの後少し話をした。今後の方針として、二、三日中にもここを撤収して王都へ向かうことになった。保護者の了承を得たので、エリスも一緒に来てほしい」
「あの……」
(保護者は他に何か言ってませんでしたでしょうか)
聞けないままエリスはがっくりと首を垂れた。ぽん、と軽く肩に手で触れて、ジークハルトが出て行った。
代わりに、エリスの服や櫛を手にした女官たちが入ってくる。皆、嬉しそうといえば嬉しそうにも見えるが、困っているといえば困っているような、複雑な感情の浮かんだ顔をしていた。
(何……、一体何が起きてるの)
エリスはとりあえず身支度をせねばとのろのろと寝台から足を下ろす。
「身体がお辛いですか」
女官の一人に尋ねられて、思わずその顔を見返して凝視してしまった。
顔が赤くなるのが自分でもわかった。
「いいえ! 全然まったく! 何も! 絶好調の元気いっぱいです!!」
ジークハルト、これ絶対説明が足りていない。
恨みと呪いを込めて心の中で罵倒しておく。
そのついでに、自分が悪いとはいえ、ろくに話さなかったアリエスにも最大限の八つ当たりを。
(結局暗殺はどうなったんですか、お師匠様ーっ)
* * *
空と海がのぞめる、開放的なバルコニーでジークハルトと向かい合って食事をした。
日差しが強くなる前の時間で、適度な風もあり、満たされたひと時を過ごした。
「魚の骨は俺が取ろうか」
と、ジークハルトがエリスをからかい、給仕がやけににこにことする一場面もあったが、それほど難しい料理はなかった。
食後にミントとシトラスを浮かべた水を飲みつつ、人を下げると、ジークハルトが切り出した。
「このままメオラの一行も、王都へ同行願うことになった。名目上、俺とディアナ姫が意気投合して、婚姻が整いそうだ、という」
「あ、そうだったんですね。おめでとうございます」
「名目上」
強い口調で、念を押された。
ぴぃー……と鳴き声をあげて、頭上を鳥が過ぎていった。
真剣な表情をしているジークハルトと、しばしの間見つめ合ってしまう。
「え、あれ!? あれ!? あ、まさかこれ!?」
突然の思いつきに、エリスは勢いよく椅子から立ち上がった。
「なんだ?」
驚いた様子で尋ねられて、エリスは二、三回息をついて呼吸を整える。
そして、その思いつきを口にした。
「たぶん、今朝ここに来た女官の方々は勘違いをされていて……。たぶんなんですけど、わたしとジークハルトが一夜を共にしたと思っていらして……」
言ってるうちに、顔が熱くなってくるし、声は小さくなってしまう。
「べつに、大きく間違えてはいないが」
ジークハルトは大いに強がったが、エリスの羞恥につられたように顔は赤くなっていた。
「と、とにかくですね。わたしがジークハルトと、い、一夜を共にしているにも関わらず、ジークハルトは姫君と婚約を宣言されるわけですよね」
落ち着かない様子でジークハルトはグラスの水を飲み干すと、顔を上げた。顔はまだ赤かった。
「その辺の話はすでに今朝の早いうちから進めている。あまり眠れなかったので、朝、王宮の者が起き次第出せる指示は出した」
「そ、それはつまり……。ジークハルト、二股なのでは!? わたしと姫は恋の鞘当てなのでは!?」
女官たちの、なんとも言えない複雑そうな顔がよぎった。
「その発想は、なかったな」
こみ上げる笑いを堪えるかのように、片頬をひきつらせ、肩をふるわせながらジークハルトはしまいに掌で顔を覆った。
「笑いごとではないですよ!? 姫は大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だ、問題ない……」
答えながらついにジークハルトは笑いを弾けさせた。
「笑うところですか!?」
どこまでも朗らかな様子に、エリスはテーブルに手を置き、身を乗り出した。
「聞いていますか!」
「聞いている。勘違いはしたくないけど、嬉しすぎて今少しやばい」
見下ろされる形になったジークハルトは、まだ笑いの余韻の残したまま、滲むようなまなざしでエリスを見上げた。
「俺は側室を持つつもりはないし、たった一人を、そんなこと考える余裕もないくらい愛すると誓う。毎日、息をつく間もないくらい愛し抜くよ」
深い緑の瞳は、柔らかな光を放ち、エリスにまっすぐ向けられていた。
(ああ、この目……)
戦場に膝をつき、空を仰いでいたあの虚無のような瞳の。
かつて絶望の深淵をのぞき、飲み込まれかけていた狂戦士とは思えないほど。
おそらくこれが本来のジークハルトなのだと。
視線に射止められただけで、心が震えるほどに、穏やかで慈しみに溢れている。
こんな目をする人なのに。
ジークハルトのことを怖がって縁談に破れていった姫君たちは、最良の伴侶を得る機会をふいにしたのに違いない。本当に、見つめていると胸がいっぱいになり、息が止まりそうなほど、優しい。
これほど愛に満ちた王が、これからの海の国を牽引していくのだ。
「ジークハルトは良い王様になりますね」
「……ん?」
「心から応援しています……!」
「うん……」
感極まった様子のエリスに、納得いかない様子ながら、ジークハルトは頷いてみせた。
* * *
その日の予定を、二人で話し合っていたときに、ジークハルトの部屋付きの者が来訪者を知らせにきた。
「ジークハルト様。撤収に関して、大体指示は行き渡りました。俺は今日明日で書類仕事を片付けます。ファリスはアリエス様と魔導士同士交流を深めるそうです。エリス嬢は」
不思議なものを見るような目で、現れたその男を見ていたエリスは、そこでようやく「ああっ」と声を上げた。
「エンデさんだ……。うっそ、すごい若い……」
「エリス嬢。俺はもう少しまともな反応が欲しかった」
はっきり拗ねた口調で言ったその人を、エリスはしげしげと眺める。
片目を覆っていた黒い布を外したエンデの顔は、見慣れていた彼とはまた全然印象が違っていた。
「まともな反応……? えーと……お師匠様みたい? あれ? えーと……つまり顔がいい?」
自分の語彙の少なさに気付き、眉間に皺を寄せて悩み始めたエリスに対し、大きく溜息をついてエンデは言った。
「最大限の賛辞のつもりだろうけど。まったく嬉しくない。次に顔合わせるまでに、もう少しまともな褒め言葉を考えておいて。俺、褒められるの大好きだから」
「はい」
中身は変わらないはずなのに、威圧感がいや増していて、エリスはそれ以上余計なことを言わないように、姿勢を正して返事をした。
なおも疑わし気に目を細めて見ていたエンデであったが、様子を伺っているジークハルトをちらりと見てから、すぐにエリスに向き直った。大股に距離を詰めて、腰を折って耳元に唇を寄せた。
「ほんとは何でもいいよ。この目でエリス嬢の顔を見られただけで嬉しい。やっぱりすごく可愛い。おはよう」
耳に直接流し込むような、低い囁き声。
息が微かにかかって、柔らかい何かが触れた感触があったが、本当に一瞬だったのでエリスにはそれが何かまではわからなかった。ただ、エンデが立ち去った後もしばらく続いた、ジークハルトの愕然とした表情が気がかりだった。




