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半熟魔法使いの受難  作者: 有沢真尋@12.8「僕にとって唯一の令嬢」アンソロ
【第二部】

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Sleeping Beauty(前編)

 悔しい。

 顔を見たら勝手に泣けてきた。

 さんざん悩んで、疑ったり、裏をかこうとまでしていたのに。

 現実のアリエスは、いつも通り飄々としていて。


(ファリスさんの右手は燃やしたけど、ちゃんと治癒してくれたし)


 それなりに、きちんと、優しかった。


「顔、ひどいぞ。こするな。目が腫れる。ちょっと俺に見せろ」

「見せたくないです。今お師匠様見たら、そっちの方が目が潰れます」


 何かとエリスを構おうとするアリエスに対し、エリスはぐずぐずと言いつつ、避けまくっていた。


「一応アレはエリス嬢の中では、迂闊に見たら目が潰れる程度の美形だって認識なんだ。へー……」


 二人の関わりを遠巻きに見ていたエンデが、誰にともなく言った。

 どこからどう見ても完璧な美貌の持ち主が、エリスにすげなく袖にされている。


「二、三百年生きてもエリスに対してはあんな感じなんですね。ますます不老長寿に希望をなくすなあ」


 大魔導士の一挙手一投足を観察していたファリスが、身も蓋もない感想をもらした。


 * * *


 夜の時間帯に詰めていた者たちを動員して、急遽ジークハルトの私室のバルコニーに軽食を用意する運びとなり、全員で移動した。その道すがら、魔導士の師弟は何かと言い争いをしており、男たちは遠巻きに見守る形になった。


(あのエリスは、どう見ても甘えている。羨ましい)


 という強固な共通認識は瞬く間に出来上がっていたが、誰も口にすることはなかった。

 しかし、目的地に着く前にエリスが静かになり、部屋に入る頃にはアリエスが抱きかかえていた。


「寝た。ちょっとあそこを借りるぞ」


 ジークハルトの寝台に、さっさと運び、なんの遠慮もなく横たえると足にひっかかっていたサンダルを脱がせる。

 その光景を、悩ましいものであるかのように見るべきか見ないべきか、ジークハルトは葛藤していたが、エンデやファリスはさっさとバルコニーに出て各々のグラスを手にしていた。


「本当に、突然寝てしまうんだな。いや、もしかして」


 ジークハルトに水を向けられ、エンデが面倒くさそうに「飲ませてないですよ」と答える。

 その横を無言で通り過ぎたアリエスは、当然のようにファリスから杯を受け取った。


 海が見渡せる広いバルコニーは、満天の星空に抱かれた夜の船のようだった。

 気温は暑くもなく、潮の匂いと波の砕ける音が心地よく感覚器を刺激する。


「エリスは魚介類全般食べたことないみたいでしたけど。大魔導士様は、この国に来てから召し上がりましたか」


 ファリスがテーブルに並べた軽食を示して言うと、アリエスはグラスから唇を離して微笑んだ。


「エリスは忘れているだけだよ。記憶喪失は本物だ」


 間近でその美貌を哀惜に染め上げる笑みを見てしまったファリスは、少しの間固まった。

 同じく、それを目撃したジークハルトは、助けを求めるようにエンデに視線を向ける。

 離れて立っていたエンデは、視線を受け止めぬままぶらりと歩いて手すりに背でもたれかかり、空を見上げた。


「俺、この目だし。夜目もきかないから、噂のすっごい美貌がよく見えなくて、良かった。ところで、どうもよくわからない。エリスはあなたのことは覚えていたようだ。お父さん?」


 視線をアリエスに戻して、軽い調子で言う。

 アリエスはじっと湖面のような瞳でエンデを見た。ややして、静かな口調で答えた。


「あいつの記憶喪失はなかなか強固でね、一年前は俺のことも忘れていた。何もかも。そのせいで、うっかりお父さんをすることになってしまった」

「難儀だな。お父さんはいつかその時がきたら、娘を嫁に出さないといけない。どんなに可愛くても」


 アリエスとエンデの視線が、夜の虚空で結ぶ。

 風が吹いて、エンデの柔らかい髪が夜気になびいた。

 先に目を逸らしたのはアリエスだった。

 そのままゆっくりと視線をめぐらせ、テーブルのそばに佇んでいたジークハルトを見つけると、そこで止めた。


「海の国の王よ。魔導士の『血と鋼』はまだこの国にいるのか」

「戦争が終わった後、少し休みが欲しいと公務からは退いているが、国は出ていないはずだ」


 アリエスは目を伏せて、小さく嘆息した。

 やがて、部屋との境に立つロアルドを含む全員の顔をゆっくりと見回し、告げた。


「あいつはいずれまたあの規模の惨劇を引き起こそうとする。滅ぼさねばならない」

「一応、戦争の功労者だ」


 アリエスは再びジークハルトに視線を定める。


「仕えるべき君主を、鋼の奴隷、狂える戦士として使役し、多くの血を流させただけだ。()()()、鋼が折られて以来、手にしていないのは賢明だ。次に剣を手にしたら、お前はもう戻ってこれないぞ」


 大魔導士が指で示した先には、ジークハルトが申し訳程度にさげている木剣があった。


「あの時、鋼が、折られた……?」

「そう。絶対に折れるはずのない、魔力で強化された鋼が折れた。あの時陛下は空に、何を見た?」

「空に──」


 アリエスの口ぶりは、まるでその場面を知っているかのようだった。

 ジークハルトは、瞠目してアリエスを見つめたまま、小声で繰り返した。「空に」

 ファリスが気づかわしげな視線を向ける。

 ゆったりとした足取りで、アリエスは手すりの方へと歩むと、エンデの横に立って乗り出すように空と海を見た。

 凪いだ海から、波の音がしていた。

 大魔導士は、ひどく硬質で、そうであるがゆえによく通る声で言った。


「深い森の奥に、いつもは長い眠りについている、偉大な魔導士がいる。とても強い魔力を身に宿している代償なのか、稼働時間が短い。起きていられる時間が、とにかく少ないんだ。一度眠りにつくと何十年と目覚めないことも多い。目を覚ますと、その前に生きた時間のことを根こそぎ忘れていることも珍しくない。特に……、本来起きて良いときではないときに目覚めてしまったときは。でも、今回はどうしても見過ごせなかったらしい。無理やり覚醒して、ありったけの力で『血と鋼』の魔力を打ち破った。戦争を終わらせるために、狂戦士を止めるために、折れないはずの鋼を折った、あの力」


 波の音以外、何も聞こえなかった。

 誰もが動きを止めて、視線も交わさずに、思い思いのところを見ていた。空や海を。


「目覚めの時ではない時に無理やり起きて力を行使したせいで、今回はいつもよりひどかった。自分のことも、俺のことも何もかも覚えていなかった。初めてじゃないけど。特に、俺を忘れるのは。その状態で、一人で森をさまよっていた。偉大な魔導士が行き倒れ寸前。俺が間に合わなければ死んでたかも」


「あの時、空に」


 ジークハルトが、躊躇うような小声で言った。そんな自分の弱気を払うように、顔を上げて、アリエスを見た。


「空に、誰かいた気がしたんだ」


 誰か。

 その時から、ずっとその誰かを探していた。出会いたいのは、求めていたのは、唯その一人だけだった。

 あふれるほどの希望と絶望を込めて、アリエスが告げた。


「陛下は、一回、本気の命がけであいつに守られているんだ」

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