3章 60 琴音の慌しい一日 1
6月も半ばのとある日、一限目の授業を終えた琴音は学校の屋上へと訪れていた。
屋上は園芸部が丹精込めた花が飾られていることもあって、お昼休みなどでは中々に盛況なのだが、流石に10分という短い休憩時間に訪れる者は少なく、琴音と琴音を呼び出した上級生しか人影は無かった。
——ふう。……やっぱり気乗りはしませんね。
天気は快晴で風は気持ちよく吹いているのに、琴音の心境は曇り気味だった。
これから何が待ち受けているのか、半ば予想がついているのだ。
正直、あまり好ましくはないのだが、だからといっておざなりな対応も出来ない。
かくして、内心を映さない楚々とした態度で相手に話しかけた。
「お待たせしました。……お久しぶりです、先輩」
「ああ。久しぶり……」
少々ぎこちない挨拶を返してきた一つ上の先輩は、琴音が中学生だった頃も先輩だった。確か文化祭の準備を一緒に行い、そしてそれ以降は関わり会うことも無かったのだが、昨日、唐突に電話がかかってきたことで今の状況に至った。
「それで、いったい何のお話でしょう?」
端的に用件を伺うと、先輩は意を決したように琴音に告げた。
「滋賀。今度の週末に、俺と二人で遊びに行かないか?」
「それは、デートのお誘いですか?」
「……そうだ。俺と付き合って欲しい」
その提案は電話を貰った時の予想からいささかも外れていない。たぶん、そうだろうな……と、これまでの経験から察していた。
自分で言うのも何だが琴音はモテる。
容姿は整っているという自覚はあるし、なんなら普段から可愛くなろうと努力もしている。性格だって悪くはない……筈である。
だから今回に限らず、よくお付き合いを求められるのだが、琴音がそれに応じたことは一度もない。
兄さんという思い人がいる以上、他の異性に靡くのは一種の浮気だ。そんな不誠実な真似をする気は一切ない。
よって、琴音は迷いなく答えた。
「申し訳ありません。先輩とはお付き合い出来ません」
「……そうか」
おそらくは脈が無いことを悟っていたのだろう。先輩の呟きは、落胆より諦観を感じさせた。
そのまま、気まずい沈黙が二人の間に流れた。
——こればっかりは、何度経験しても慣れませんね。
相手からの好意を無下にするのは、それが正当な権利であっても心苦しいものだ。
だからといって、心苦しいから付き合う……とはならないので、自分に出来ることは誠意を持ってお断りすることだけである。
こう言ってはなんだが、いつも通りのことが起こって、いつも通りのことが終わった、それだけの話である。
ただ、今回はオマケが付いていた。
しばし無言だった先輩は、どこか吹っ切れた様に小さく笑った。
「やっぱり駄目だったか……。いや、佐田って奴はあんまり良い噂を聞かないしさ……どう贔屓目に見ても俺の方がモテそうだから、もしかしたらチャンスがあるかもって期待したんだけどな……」
「……えっ?」
確かに先輩と佐田君を比べるなら先輩の方がモテると思う。先輩は中学の頃は女子から人気があったし、おそらくは高校でも同様だろう。一方で佐田君は、人当たりを良くして、気遣いを覚えて、もっと笑顔を見せれば人気が出るかもしれないが、今のところクラスの女子から興味を持たれる様子はあまりない。
だから先輩の言っていることは間違ってはいない。いないのだが、そもそも何故そこで彼の名前が出てくるのか……。
琴音の理解が追いつかない内に、心境に整理をつけた先輩が先に言う。
「今日は来てくれて、ありがとう。おかげで吹っ切れた。……あ、でも、もし滋賀が佐田に愛想が尽きて別れるなら、その時はまた恋人に立候補するよ。それじゃな」
失恋の痛手を負いつつも、こちらに気を使うように笑って去って行こうとする先輩。
そんな先輩を引き留めて、先輩の勘違いを正すことも、根も葉もない噂の出どころを問いただすことも気が引けた。
「私と……佐田君が? …………ええっ?」
一人屋上に残った琴音の呟きは、誰に聞かれることもなく風に溶けていった。
……。
……。
「ということがあったんですけど……芹香は何か聞いてませんか?」
「まー、あるっちゃあるけど……」
長谷川芹香は、中学からの友人である琴音から相談を受けたので、久しぶりに昼食を共にしていた。
食堂のおばちゃんが作ったA定食を箸で摘みながら、向かい合う琴音に問いかけた。
「それ、クラスの友達に聞かねーの? よそのクラスの私に聞くより、よっぽど話が早いだろうに?」
「私のクラスでは、そんな話は聞かないんですよ。それに同じ教室に佐田君本人が居るので、そういう話を振りづらい面もあります」
「それもそっか」
琴音の言い分に納得した芹香は、じゃあ、私が語ってやるかと前向きに検討したが、いざ語るとなると言葉に迷う。
琴音とアレの噂はそれなりに出回っていて、バリエーションもかなり豊富で、いうなれば噂が噂を呼んでいる状況だ。
中には明らかな面白半分な奴や、底意地の悪い奴も含まれていたが、そういうのは語る必要が無いと思うので、それらを除いた比較的健全な説を取り上げた。
「もう付き合ってるのか。それとも、これから付き合うのか……何にせよ二人は両思いって説と、佐田が琴音に一方的な恋心を抱いているって説と、あとは実は中学の頃から二人は付き合っていたって説なんかもあるかな」
「そんなに出回っているんですか……」
困りましたね。と、悩む琴音の様子を見るに、やはり噂は噂でしか無いようだ。
まあ、知ってた。
琴音は異性からこれでもかっていう程モテてきたが、色恋沙汰にはとんと縁が無かった。本人にその気が無かったからだ。
なんでかって言ったら、間違いなく身内の影響だろうと芹香は思ってる。
——お兄さんが、あれだものなー……。
琴音の双子の兄である槍也さんは、イケメンという言葉では表現しきれない程のイケメンである。いや、マジでイケメン。バチくそイケメン。いけていけて、芹香と同学年にも関わらず槍也くんとは心の中ですら呼べない、いっそ槍也様とお呼びしたいくらいの究極のイケメンだ。
芹香も何度か会って話したことがあるのだが、単純な顔の良し悪しだけじゃなく、ごく自然に周りを気遣える性格や身に纏う空気が凄くイケメンで、他の人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐き出しているのに対して、槍也さんはなんか空気を清浄する様なマイナスイオンでも振り撒いてんじゃねーの? という疑惑の持ち主だ。
もし、まかり間違って槍也さんから告られる事があるなら、芹香は即受けして、その日の内に今付き合っている恋人に別れを告げるだろう。
——ごめんね、たっ君。でも、しょうがないよね? だってあの人イケメンだもの。
とまあ、そんな人が身近にいる琴音の異性の基準は間違いなく槍也さんで、言い寄る異性を槍也さんと見比べているのだ。そりゃあ、彼氏なんて出来ないだろう。
芹香は高校に入ってから念願の彼氏が出来たとあって、お昼休みも放課後も休日も、恋人と一緒の生活をしている。
一方で琴音は、サッカー部のマネージャーとして毎日を過ごしている。
同じ家庭部に所属していた中学時代と比べると、最近は電話やメールのやり取りが主で、こうやって顔を合わせる機会も減っていたが、どうやら、そういう所は変わっていないようだ。
勿体ないと嘆くべきか、変わらないと安心すべきか、判断に迷いながらも助言した。
「知らない所で変な噂を立てられるのが困るってのはわかる。でも放課後、毎日二人っきりってのは噂されても仕方がないんじゃない? それを止めれば噂も噂として、消えて無くなっていくと思うよ?」
芹香としては、至極真っ当なことを言ったつもりだったが、当の本人の表情はすぐれなかった。
「そうは言われても……佐田君の練習にお付き合いするのは、佐田係としての私の仕事ですし……」
「ごめん、なに係だって?」
「え? ああ、佐田係です。何かと自分勝手な佐田君のお目付役です」
「えええっ……」
——なんなんだ、そのアホな係は?
と、そんな芹香の内心を顔色から読み取ったのか、琴音は佐田係とやらが生まれた理由とその経緯を簡潔に伝えてくれたが、部外者である芹香にはマジで納得が出来ない。むしろ、大丈夫かサッカー部⁉︎ という感じだ。
そしてそれは琴音に対しても同様なので少し呆れたように言った。
「琴音は時々、おかしな事態を素で巻き起こすよな」
本心からのセリフだった。琴音は心外そうな顔を浮かべたが、それなりに長い付き合いの芹香は騙されない。
こいつは基本、真面目な奴だが、真面目であるが故に、週二でランニングを行う家庭部という意味不明な代物を作り上げたことがある。
発端は家庭部の後輩が、琴音に美容の秘訣を聞いたことだ。
「私も綺麗になりたいです〜、なんかいい感じのコツはありませんか?」
と、軽い感じでアドバイスを求めた後輩に対して、琴音は真面目な顔でバランスの良い食生活と日々の運動を勧めた。
はたから聞いていた芹香は、
——違うって。そいつは、そういうガチな奴じゃなくて、お手軽メイク術とか、ちょっとした仕草で男の注意を引いたりするテクニックとか、そういうのを求めてるんだって!
と、思いながらも、そのギャップが面白かったので口を挟まずにいたら、後輩は琴音の理路整然とした説明を受けいれてしまい、食生活の改善と運動に挑戦することになった。
今思い返しても、お年頃の女の子の心理を的確に捉えていたと思う。
ただ、何かを始めるだけなら誰でも出来る。芹香だって、ダイエットを始めたことが軽く5回以上はあるのだ。けれど、本当に困難なことは継続することの方で、その後輩も長続きはしなかった。
そして再び琴音に助言求めた結果、
「でしたら、私は家庭部の活動が無い日は運動に当てているので、あなたも一緒にやりませんか?」
と、これまた親切心を発揮したことで、二人は一緒にランニングをすることになった。しかも、それを知った他の後輩が、
「一人だけ贔屓するなんてずるいです。私も混ぜて下さい」
と言い出した事で、後はあれよあれよという間に家庭部全員が運動を始めることになり、かくして、陸上部やテニス部といった他の運動部から、
「何やってんの家庭部?」
と、親しみを持ってからかわれる、運動する家庭部が誕生してしまった。
巻き込まれた芹香は、たまったものじゃなかったが、そう思う一方で、当時、何げに危機感を覚えていた腰回りが、体操とランニングによって改善されていったので、その有用性は認めざるを得ない。
あれが無かったら今現在、彼氏が出来ていたかどうか微妙なところなので、それを加味すると、やはりあれは必要なことだったと思っているが、それでも極一般的な感覚として、運動する家庭部という代物はおかしなものだろう。
そして、そんなおかしな家庭部を作りあげた前科のある琴音なので、
——今度はサッカー部でもやっちまったか……。
と、芹香が疑うには充分なのだが、どうやら今回の件については本当に冤罪らしい。
琴音曰く、佐田君の感性と才能を出来る限り殺さない為の措置で、つまり発端も因果も佐田にあり、サッカー部は総出で佐田に合わせているそうだが、それはそれで疑問に思う。
——あいつ、そんなだったか?
確か中二の頃、佐田とは同じクラスだった。といっても仲が良かった訳ではなく、会話も1、2回あったかどうかというところ。
家庭部の後輩だったナナミーの兄貴でなかったら、その存在すら気にも止めなかった筈だが、ナナミーの兄貴ということで記憶に残る程度には目で追っていたし、少なからずその性格についても把握していた。
こう、なんというか、周りに迎合しない反面、自分の考えを押し付けもしない、良くも悪くも自己完結した性格だった筈で、琴音を練習に付き合わせたり、サッカー部を振り回していると言われても違和感が残る。
顔を見なくなってから1年以上経過しているので、性格が変わったのかも知れないが、それにしたってチームスポーツが似合う奴とは思えない。
実際、色々と問題を起こしているそうだし、才能があるって言われても、だったら何故に中学ではサッカー部に入っていなかったのか……、
——ん〜、んん〜、んんんん〜〜…………ま、いっか。
芹香はアキラに対する思考を放棄した。
所詮は後輩の兄貴に過ぎない。性格が変わっていようが、いまいが、これから芹香と深く関わることも無いだろう。
事情を詳しく知りたいと思うほどの興味がなかった。
強いて言えば琴音の方に助言がある。琴音は佐田に特別な感情を抱いてはいない様だが、佐田の方も同じとは限らない。
——こいつはこいつで、くっそ美人だからな。
芹香よりも胸が大きいのにウエストが一回り細いとか許されない存在だ。
そんな琴音と放課後、頻繁に一緒にいたら勘違いしたっておかしくはない。というより、二人っきりになる為にわざわざサッカー部と別行動しているのかもしれない。
——可能性としてはあるよな……いや、あるな。
ただの思いつきだが、そんな馬鹿なと切り捨てるほどに荒唐無稽な話ではなく、むしろ考えれば考えるほどに信憑性が増して来た。だいたいサッカーって大勢でやるスポーツなのに、わざわざ個別練習とかおかしくない? そんなの素人にだってわかることだ。
「おい、琴音。ちょっと気をつけた方がいいぞ」
「はい? 何を気をつけるんです?」
「決まってるだろ。佐田のことだ。あいつはお前を狙っているに違いない」
もはや、芹香の中では事実に近い。
しかし琴音は、芹香の名推理を聞いても怪訝な顔を浮かべるだけだった。
「それは芹香の考え過ぎじゃないですか?」
「おいおい……」
お前は一体いつからそんなに無防備になったのか。
基本、親切でありながらも、異性に対しては常に一定の距離を保って、それより内側へは決して立ち入れさせはしなかった凄腕の剣豪のような琴音は何処へいってしまったのか。
——仮にそれだけ佐田に気を許しているのだとして……。
——琴音ならもっと琴音に釣り合ういい男が、他にいくらでもいるだろうに……。
若干、呆れつつも友達として助言することにした。
「いいか、琴音。彼氏持ちの私がいいことを教えてやろう」
「……なんとなく嫌な予感がするのですが、でも何でしょう?」
「この年頃の男なんて、考えていることの半分はエロいことだぞ? ましてや、お前のエロい顔と体と二人っきりで、エロいことを考えない男子高校生なんて、この世にいない」
正しいことを言った筈なのに、顔を赤らめた琴音からもの凄い非難が返ってきた。




