57 新部長、朝霧の苦悩
学校からの課題、いわゆる宿題というものは時に生徒の都合を考えない。
例えば家の都合で忙しかったりする者も、例えば風邪で体調が悪かったりする者も、例えば大事な大会で負けたことで意気消沈しながらも、1、2年による新体制を組み上げなければならない新米部長なんかにも、
『お前の都合なんぞ知らないよ』
と言わんばかりに、平等に、容赦なく課題が課されるのだ。
そんな訳で夜の21時。本日サッカー部の部長に就任したばかりの朝霧文夜は、サッカーとは何の関係もない英語と数学の宿題を片付ける為に机に向かっていた。
文夜本人としては、さっさと宿題を片付けて今後のサッカー部の方針について考えたいところだが、今日に限って……というより色々と心理的に集中出来ない条件が揃っている今日だからこそ、普段なら30分もあれば終わる課題に倍近い時間がかかってしまった。
「ふ〜〜っ、やっと終わった……」
ようやく終わった解放感から、文夜は椅子の背もたれに寄りかかって、ぐいっと背筋を伸ばした。
しばらくはそのままの姿勢で天井を見上げていたのだが、やがて机の上の物を片付け、ついでに明日必要な教科書やノートを鞄へとしまい込んだ。
——うん。
これで後は寝るだけだ。余計な事に気をとられる心配が無くなったので、サッカー部のこれからについて集中して考えられる。考えられるのだが……、
「うーん……」
割と率直に言えば、サッカー部の今後を考えるだけで頭が痛くなってくる。本当に悩ましい。
これからの方針、戦術、練習方法などを色々と考えてはみるものの、これだと思えるアイデアが思い浮かばず、気づけば思考が堂々巡りをしている。
このままではラチがあかないので、とりあえず決まっているところだけでも口にした。自己確認の為だ。
「とりあえず、副部長は滋賀にお願いする。うん、それでいい」
ダントツと呼べるほどの実力があり、人望も兼ね備えている滋賀が副部長になれば、それだけで1年生は自然と纏まるだろう。
これまでの部活での振る舞いを見る限り、変に責任を負って空回りしたりもしない。ちゃんと周りに頼ることが出来、周囲は率先して滋賀を支える筈だ。
文夜にとっても頼れる副部長がいれば安心出来るので、誰にとっても損のない人事だと思う。
極端な話だが、滋賀が副部長になればそれだけで大半の問題は上手く解決するという気もする。
だから、結局のところ文夜の頭を悩ませているのはただ一つ。
佐田明。あの問題児をどう扱うかという、それだけだ。
「自分が正しいと思った選択……か。別に部長が間違っていたとは思っていないんだけどな……」
確かに自分は、佐田をベンチに入れ、状況によっては投入したらどうか……と意見して、その案を部長に却下されたが、その判断は一概にどうとは言えない。
文夜とて部長が佐田を退けた理由はよくよく理解出来るし、仮に自分の意見が通っていたとして、チームにとってそこまでプラスだったかといえば疑問が残る。
あのロングフィードを生み出す力は魅力的だが、代わりに今まで鍛えあげてきたハイプレスを失うことになる。
加えて、みんなで走って勝ちに行こう、という方針を翻すのだから士気にも関わる。
黒牛戦、負けこそしたが、最後までチーム一丸となって走りきった一体感はあった。もし佐田を加えていたら、ああはいかなかっただろう。
ましてや、下手をすると敵と戦う前に内輪揉めで自滅した可能性すらあり得たとなると、部長の判断は、まあ妥当なところ。
なのに何故自分が佐田を推したのかといえば、未来への期待……ということになるだろう。
今はまだ佐田を加えるメリットがデメリットを凌駕しない。しかし次やその次はわからない。
10月に行われる冬の選手権の地区予選、もしくは1年後、文夜たちが3年になって迎えるインターハイ。その頃、あの男はどうなっているのか……。
文夜は入部当初の佐田のことを覚えている。良くも悪くも新入生の中では滋賀を除けば断トツで目立つ存在だった。
その日の歓迎試合も、何度かこちらのハイプレスを掻い潜ってみせて、後日、あいつが高校からサッカーを始めたと知った時には驚いた。
それから色々とあったが、結論から言ってしまえば、僅か1月という時間で尋常ではない成長を遂げていた。
たった一月であれほど伸びるなら数ヶ月後、もしくは1年後の佐田は、一体どこまで伸びるのか?
無論、ただ単に早熟なだけでこれから頭打ち、という可能性もあり得ないとは言えない。
しかし、そんなことにはならないと、今後もとんでもないスピードで成長していくんじゃないかと思わせてしまうような何かが佐田にはある……という気がする。
そして、もしそうなったなら、佐田を使わないという選択肢はあまりにも勿体ない。
だから、そうならない為に早い内からチームに馴染ませておきたかった、という先を見据えた気持ちが自分の中にあったんじゃないかと、今にしてそう思う。
2か月に満たない時間しか共有しなかった三年と、これから1年以上を同じチームとして過ごす文夜たち二年生、もし世代が一つ違えば、意外と自分と部長の意見は逆になっていたのかもしれない。
まあ、それはともかく……、
「やっぱり、協調性の無さがネックになるよな……」
文夜が佐田に期待しているからといって、部員たちが賛同してくれるとは限らない。
部長が頭を悩ませていた問題は、新しく部長になった自分にとっても、やはり難題だ。
現実、いま佐田は部に顔を出してすらいない。
『部活に来ない男を試合に出すのか?』
と、問われれば適切な答えを返せないだろう。
また佐田はハイプレスを習得しておらず、おそらくは今後もそれを重要視することは無い。
そんな佐田を使うということは、これまでとは方針、戦術、全てが変わると同義で、部員たちが容易に受け入れられるとは思えなかった。
しかし、黒牛やそれと同格のチームを相手に勝ちに行くには、やはり必須だろう。
勝利とチームワーク、まるで板挟みに遭っているような状況に頭を悩ませているのだが、ふと、そんな自分に驚いた。
文夜はサッカーに対して、何が何でも勝ってみたいと思うような人間ではない。むしろ対極の、サッカーは趣味に留めておく方が幸せだと思っている人間だ。
一応、誤解を招かないように断言しておくが、文夜はサッカーが好きだ。
サッカーのことが大好きだ。
子どもの頃は、学校のある日もない日も、真夏の炎天下も水たまりが凍りつくような冬の寒い日も、ずっとずっとサッカーをやっていた。
中学と高校、サッカー部への入部は入学前から決まっていたし、将来は大学でもサッカー部に加わることは間違いない。
それどころか大学を卒業して社会人になっても、なんらかのサッカークラブに所属しているだろうし、なんなら高校や大学の部活仲間を募って、自ら草サッカーチームを設立するのも全然ありだ。
有り寄りの有りの話。
きっと自分は、おっさんになってもサッカーができる人間なのだろう。
ところが、それほどにサッカーが好きで、少なからずサッカーの腕前に自信があるにも関わらず、文夜はプロのサッカー選手になりたいと、その道について真剣に考えたことがほとんど無い。
サッカーが大好きでありながら、子どもの頃の将来の夢にプロのサッカー選手が無かった。淡い夢としてすら抱かないというのは、これは、かなり珍しいのではなかろうか?
文夜がそんな自分を自覚したのは中学3年の夏の時期。
ちょうど部活を引退して高校受験に意識を切り替えようとしていたその頃に、サッカー部の顧問の先生が、強豪校へのスポーツ推薦の話を持ってきた。
別に熱心に勧められた訳ではない。
あくまで、お前ならそんな選択肢もあるよ、という提案の一つに過ぎなかったが、文夜はサッカー部で中では一番の巧者であり、当時の時点で身長179㎝と体格にも恵まれていた。
先生の提案は決して、とんでもなく的外れな提案、ではなかったと思う。
その時に言われた、
「朝霧、お前ならプロにもなれるんじゃないか?」
という台詞も、きっとお世辞ではなく本心からの言葉に違いない。
しかし結論から言ってしまえば、先生の提案は文夜の心を燃え上がらせたりはしなかった。
一応、その道に進んだ自分の将来を想像してみたが、はっきり言って楽しくないのだ。
きっと、進学先の学校では熾烈な競争が待っていただろう。
もちろん中学や高校でもレギュラー争いが無かったわけではないのだが、プロを目指す人間にとっては、レギュラーになれるかどうか、また、大会で勝ちあがれるかどうかが人生に直結するのだから、今まで文夜が経験したそれとは桁違いの重圧が生まれる筈だ。
同じクラブのチームメイトでありながら、蹴落とし合いすら生まれるかもしれない。
そんなのは嫌だった。
また、そんな過酷な環境を勝ち上がって、運良くプロのクラブチームにスカウトされたとして、待っているのは更に過酷な世界だ。
ちょっと調べればすぐわかる。プロのサッカー選手はいつだって競争に晒されている。
ましてや、成功者と呼べる者など一握りだけで、その大半は30歳を待たずに引退、サッカーの世界から姿を消すことになる。
文夜はそんな過酷な世界を生きるサッカー選手たちのことを尊敬している。でも、真似は出来ない。真似したいとすら思わない。
きっと自分は、実力うんぬんの前に、その性格が根本的に向いてない。
結局、その時は先生の話をそつなく躱して、ごく普通の進学校である天秤へ進路を決めた。
サッカーそのものを人生とするのではなく、あくまで良き趣味として、長く楽しく寄り添っていく。
それが文夜のサッカーとの付き合い方で、天秤へ入ってからもそれは変わらなかった……と思っていたが、どうやら少し違うらしい。
本気で全国を目指していた先輩達の熱意は、文夜に思った以上の影響を与えていた。
自分は今、神奈川を勝って、全国の舞台に立ちたいと本気で思っている。
たぶん、文夜の本質はそこまで変わってはいない。進路を天秤に決めたあの選択を後悔してはいないし、サッカーに人生を賭けようとも思っていない。
ただ、人生で一度くらい、本気で上を目指してもいいじゃないかと、そう思うのだ。
幸いにして人材には恵まれている。恵まれ過ぎているくらいだ。FWに滋賀がいて、中盤に佐田がいる。そして守備陣を統率する文夜も、そこいらの選手には負けない自信がある。
名も無き一般公立高校のサッカー部としては破格のメンバーで、これらの人材を上手く組み合わせられれば、今日負けた黒牛に並び立つことも夢じゃない。
上手く組み合わせられればの話だが……、
「……一番の問題は、俺が佐田のことを知らないってことか」
佐田をチームに組み込むアイデアが全く無い訳じゃない。それなりに思い浮かんではいる。
ただその案を提唱するには、文夜は佐田の人となりを余りにも知らない。佐田が部活に来ないのだから当たり前なのだが、そもそも話した回数すら片手で数えられるくらいなのだ。
賭けをするにも最低限の知識は必要だ。
佐田をチームに組み込むなら、まず、佐田を知らなくてはならない。
それも出来るなら佐田本人から聞くより客観的な意見が望ましい。心当たりは一人しか居なかった。
文夜はスマホを取り出して電話をかけた。
あいにく、その当人の番号は知らなかったが、彼女の兄貴の番号は登録されていた。
しばらくコールが続いて、やがて電話が繋がった。
「夜遅くにごめんな。ちょっとお願いしたいことがあって……」
明日の部活が始まる前に会う約束を取り付けると、御礼を言って電話を終えた。
やるべきことを終えた文夜は、しばし、スマホの画面を意味もなく眺めていたが、やがてポツリと呟いた。
「しっかし、ずいぶんと大変な時期に部長に就いちゃったもんだ」
文夜は、その言葉に乗っかる自らの感情が、困難への憂鬱なのか、それとも未来への期待なのかが判別できなかった。




