2章 22 高校生活の始まり
とある4月の月曜日、アキラは目覚ましの音が鳴る前に目が覚めた。
見れば、目覚ましをセットした時間まで30分はある。
一瞬、起き上がるかどうか悩んだが、アキラは国語の授業で早起きは三文の得という言葉が出てきた時に、わざわざ三文が、当時どれくらいの価値だったのかを調べた上で、
──こんな程度なら、わざわざ早起きする価値なんてねえな。
などと考えるような男なので、そのまま布団の中で時間が来るまでごろ寝した。
目覚ましはかけたままなので、いっそ二度寝したいくらいだったが、困ったことに目が冴えていた。
というより、ここ2、3日は眠りが浅い。
布団に入っても中々寝付けないし、夜中に目が覚めてしまう時もあった。
その理由は、はっきりと分かっていた。
先週の金曜に行われた天秤高校の入学式で再会した、とある兄妹のせいだ。
その兄の方、滋賀槍也は、サッカーの世界では、この日本という国の若手の中で1番将来を期待されるような超有望選手なのだが、何をとち狂ったのかアキラとサッカーをやりたいという理由で、サッカー強豪校への進学を蹴って、ごく普通の公立高校である天秤高校にやってきた大馬鹿者だ。
「うん。俺は佐田のパスを受けたいから天秤に来たんだ。高校で佐田と一緒にサッカーやりたいんだよ」
というのが、半日で終わった入学式の後に、滋賀の妹経由で呼び出した滋賀から言われた言葉だ。
去年の11月にも、同じような事を言われたが言葉の重みが違った。
正直、重すぎて、まるで岩でも背負っているような気分だったが、こればかりは「そんなこと知るかぁ!」と投げ出す訳にはいかなかった。
「本気で考えてみるから、ちょっと待ってくれ」
というのが、アキラにしてみれば、その場での精一杯の返事だった。
それに対して滋賀は、
「わかった。待つよ」
と、真面目な顔で答えた。
それから週末はずっと、サッカーをやるか、やらないかを真剣に考えているのだが、未だに答えは出ていなかった。
──そろそろ、決めねえと……な。
別に、週末の話し合いでは、いついつまでに答えを出すとは言わなかったし、滋賀も〆切を設けたりはしなかった。
けれど、アキラの中ではゆっくり決める気はさらさら無かった。
やるにせよ、やらないにせよ、決断は早い方がいいし、その他もろもろを鑑みて、今日の放課後までに決める、というのがアキラが自分で定めたタイムリミットだ。
何故、今日なのかといえば、今日が本格的に高校生活が始まる日であり、同時に、今日の放課後から、新入生が部活動へ参加するからだ。
それまでに決める。
それまでに決めなくてはならない。
重い。プレッシャーをひしひしと感じて、つい、
「学校……行きたくねーな……」
そんな風に、登校初日にしてひきこもりの様な事を呟いたら、
『何言ってるのさ、アキラ⁉︎ せっかく、つらい受験勉強を乗り越えて天秤高校に受かったんじゃないか⁉︎ なのに学校行かないなんて、もったいないよ!』
アキラの同居人から駄目出しが入った。こいつの名前はヤマヒコ。常にアキラの中にて、感覚を共有していて、今みたいに事あるごとに話しかけてくるという、プライバシーもへったくれもない存在だ。
アキラにしてみれば今すぐにでもおさらばしたいが、追い出し方が分からず、意にそぐわぬ共同生活を既に1年以上に渡って続けている。
そんなヤマヒコからの正論に、つい愚痴が出た。
「誰のせいだよ……」
そもそも、滋賀がアキラを追ってきた原因の大半はヤマヒコにある。
先程、感覚を共有していると言ったが、実のところ、共有しているのは聴覚だけだ。視覚や嗅覚といった他の感覚はヤマヒコにはないらしい。
何故なのかはわからない。ただ、そういうものだ。
耳だけのヤマヒコ。
そして聴覚しかないヤマヒコは、聴覚だけは常人離れしていた。
どれくらいかと言うと、あの広いサッカーコートで動き回る敵味方の全員を、足音や呼吸音なんかで把握できるくらいに常人離れしている。
なんだそれ⁉︎ と言いたくなるくらいに、ちょっと想像のつかない世界だ。
おかげで、本来たいした実力も無かったど素人のアキラが、『日本サッカーの救世主』などと言われていた滋賀槍也に見込まれ、今の状況に陥っている。
──俺が困っているのはヤマヒコ、お前のせいだ。
と、暗に示唆したのだが、ヤマヒコは不満げに言った。
『えー? ……アキラが友達作るのが苦手なのは、俺のせいじゃなくない?』
「はっ? 何の話だ?」
『え? 新しい学校で友達ができるか不安で、学校行きたくないって話じゃないの?』
「ちげえよ馬鹿! 滋賀とサッカーの事で悩んでんだよ!」
『あっ、そっちか! ごめん、てっきり……』
勘違いしていた事を、本当に申し訳なさげに謝ってくるヤマヒコだが、アキラにしてみればよりムカつく。
そりゃ、友達が多いとはお世辞にも言えないし、かの有名な「友達、100人できるかな」というフレーズは、人づきあいの上手くない子供に対するパワハラワードだと思っているが、だからといって友人が全くいない訳ではない。
全員、他所の高校に行ったが友達は友達だし、高校にせよ、何百人という同級生がいるのだから、1人2人くらいは気の合う奴もいるだろう。
だからそんな、まるで腫れ物に接するような扱いをされる謂れは全くない。
露骨なまでに不機嫌になったアキラは、布団の中で寝返りをうちながら思う。
もし、アキラがサッカーをやるならヤマヒコの協力は必須だ。
つまり、もしこの先、ヤマヒコを自分の体の中から追い出す方法を見つけたとしても、実行することはできなくなる訳だ。
百歩譲ってヤマヒコが嫌いとは言わない。
このおかしな共同生活にも慣れつつはある。
それでもこの先、ずっとこいつと二人三脚をやって行く事を考えたら……うんざりする、というのがアキラの本音だ。
「どうすっかな、マジで……」
たかだか、部活に入るか、入らないかを決めるだけだというのに、高校受験より遥かに重く、アキラの頭を悩ませている。
結論はまだ出ない。
……。
……。
結局、2度寝は出来ず、さりとて考えもまとまらないままに起きる時間が来たので、真新しい制服に着替えて下に降りた。
リビングでは、しっかりと身だしなみを整えた妹の七海が、アキラより先に朝食を食べていた。
「あれ? 母さんは?」
炊飯器を開けて、炊きたての白米をよそいながら七海に問いかけた。父さんの朝が早いのはいつもの事だが母さんが居ないのは珍しい。
「今日は早番」
「なる……」
言われてアキラは腑に落ちた。母さんのパートの勤め先は、月の初めの月曜日は忙しい。
見れば今日の献立はレンジでチンと昨日の残り物だ。
──まあ、唐揚げは好きだからいいけどさ……。
冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐと、片手にごはん、もう一方で牛乳を持って自分の椅子に座った。
そして、早々に手を付けようとしたが、それより先に、向かいに座る七海が「はい、これ母さんから」と、テーブルの真ん中に500円玉を置いた。
「何?」
「アキラの昼ごはん」
「ああ……高校じゃ、給食ねえもんな……」
今の今まで、その事に気づいていなかったアキラは、目から鱗……といったら少し大袈裟だが、そんな様な気分になりながら財布に500円玉を仕舞って、今度こそ朝食に手をつけた。
しばらく黙々と平らげていたが、アキラより一足先に朝ごはんを食べ終えた七海が口を開いた。
「そんで? アキラはサッカーやるの?」
「さあな……」
掛け値無しの本音だったが、はぐらかされたと捉えたのか鋭い目つきで睨まれた。そこそこ美人が台無しだ。
まるで罪人を見る目つきだが、実際、もしアキラの意思が定まっていたとしても、やはり、しらばっくれただろうから、まるっきり冤罪とは言えない。
七海は、アキラと滋賀兄妹のあれこれといった事情を知る唯一の部外者だ。
といっても、アキラが七海に喋った訳じゃない。アキラは、んな事しない。
じゃあ何故知ってるかと言えば七海と滋賀の妹には、中学の部活の先輩、後輩という繋がりがあるからだ。
しかも、どうやらアキラの進学先や受験の合否を、滋賀の妹にリークしていたふしがある。
おととい、その事を問い詰めたら「知らなーい」などとしらばっくれやがったので「ジューダス七海」と小馬鹿にしたら、スリッパで頭を叩かれた。
以来、兄妹間でプチ冷戦状態が続いている。奴に渡す情報など何もない。
唐揚げとサラダをまとめて胃に放り込んでいると、七海が投げやりに言った。
「まあ、アキラが部活やるかなんてどうでもいいけど……でも、琴音先輩のお兄さんがアキラを追って天秤高校に入学したことは内緒にしといて。じゃないとウチに不幸の手紙がダース単位で送られてくるから」
「んな、大袈裟な……」
「大袈裟じゃないよ。今、中学校じゃ、大騒ぎになってるもん。槍也先輩が天秤に行ったって」
「…………マジかよ?」
アキラが通っていた中学は一足早く、先週末の金曜から学期が始まったのだが、そうか、そんなことになっているとは…………まあ、滋賀の人気を考えたら、おかしくはないのかもしれない。
「何? 滋賀は大馬鹿野郎だって?」
「まさか? 色々と噂は飛び交ってるけど、ほとんどはたわいもない奴だし、『私も高校は天秤にしょっかな?』なんて騒いでるだけだよ……女子はね。でも、サッカー部の男子は不満げだったなぁ……」
わかる、わかる。と、頷く七海の仕草には、遠回しにアキラを責めるようなニュアンスがあったので、
「何がだよ?」
と、無愛想な声音で尋ねたが、七海の返事はアキラの倍はトゲトゲしかった。
「私は、琴音先輩には水瓶に進学して欲しかったの! 美人で、聡明で、頼もしくて、優しい先輩には、それに相応しい所に行って欲しかったの! それなのに、どっかの馬鹿のせいで!」
そう言われても、兄貴の方はともかく、妹の方は何ら関係ない……というのが、どっかの馬鹿の考えだったので、それをそのまま七海に告げた。
「妹の方は俺と関係ないだろ? つーか、連絡つくなら反対すりゃ良かったじゃん?」
心の底から他人事、といった言い草が気に食わなかったのか──机の下からスリッパの一撃が飛んで来て、アキラの足を襲った。
「いって! 何しやがる⁉︎」
「うるさい馬鹿! 琴音先輩はしっかりしてるから受験のときまで槍也先輩や琴音先輩が天秤に行く事は隠してたの! 隠して、余計な横槍やライバルを増やさないようにしてたの! もし知ってたら反対してたし!」
「はあ⁉︎ 滋賀の妹の秘密主義で、何で俺が蹴られるんだよ⁉︎」
理不尽に蹴られてやり返さない程、アキラは平和主義者ではない。
とはいえ、アキラはもう高校生、ほとんど大人なので、アキラより2つも若い、ガキな妹に蹴り返すような真似もしない。
なので、アキラの履いてるスリッパの裏側を七海の足にぐりぐりと押し付けた。
「汚な! このクソアキラ!」
激昂した七海が、再度、蹴りを入れてくるが、
「はっ! 同じ手はくわねえよ!」
それをスリッパでガードして、ついでに、もう一度スリッパの裏側を押し付ける。
しばらく、机の下で激しい戦いが繰り広げられたが、それを聞いているヤマヒコが嘆息と共にぼやいた。
『アキラも七海ちゃんも……お母さんがいないと、ホント歯止めがかからないよね……』
ヤマヒコのぼやきには、呆れる、という成分の他に、ある種の慣れがあった。
こういってはなんだが、佐田家ではよくある光景だ。
アキラのサッカーをするか、しないかを決める重大な一日は、こうして、ある意味、普段通りに始まった。




