第10話 構えのかたち
刃を振る前に、立つことを覚える。
外の空気は、まだ湿っていた。
雨は止んでいたが、葉の滴はまだ落ち続けていて、風が吹くたび枝が揺れ、雫が連なるように地面へと落ちていく。
ヴォルトは、すでに起きていた。
──というより、“寝ていた”かどうかさえ、わからなかった。
リオが目を覚ましたとき、彼はすでに槍を手入れしていた。
槍の穂先を布で拭き、柄の継ぎ目に指を這わせ、少しのほつれも見逃さないように動いていた。
その姿は、昨日と何も変わらない。
けれど、少年の中には、昨日とは違う“何か”が、残っていた。
焚き火はすでに消えかけ、空間の中に漂っていた温もりも、次第に外気に飲まれていく。
この異空間にいながらも、リオは外の空気を感じた。
ヴォルトは、壁際に近づくと、無言で片手を伸ばした。
昨日くっつけた“ドワノブ”がそこにある。まるで最初から生えていたように、何の違和感もなく、岩肌のような壁に馴染んでいる。
男はそれを握ると、軽くひねる。
──ごく自然に、扉が開く音がした。
外の空気が、流れ込んでくる。湿り気を帯びた、土と葉の匂い。
それだけで、この“異空間”がどれほど閉ざされていたかがわかる。
ヴォルトは、少し外を見回した。
足元の土を確かめるように歩き、空を見上げ、空気の動きを読む。
何も言わない。けれど、“周囲に異常がないか”を確認しているのは明白だった。
リオも、そっと外に出た。
雨はやんでいる。だが、あちこちに水が残っており、ぬかるんだ地面が靴の裏にまとわりつく。
昨夜の“鳥”──ヴォルトが置いた、あの番の鳴き鳥の遺物は、もう姿を消していた。
もしかしたら回収されたのかもしれないし、そもそも“置かれていた”かどうかも疑わしいほど、痕跡はない。
痕跡がないこと。それ自体が、リオにとっては不気味だった。
「……全部、なかったみたいだ」
小さくつぶやいた声は、ヴォルトの背には届かない。
だがその背中は、一度だけ、空を見上げたあと、軽く動いた。
まるで、「確認は済んだ」と言っているかのようだった。
森は、深くはなかった。
雨に洗われた葉が、朝日を弾いている。ぬかるむ地面を踏みしめながら、ふたりはゆるやかに下り坂を進んでいた。
会話はなかった。
けれど、空気は張りつめていない。無言で歩くこの時間に、リオは奇妙な“安定”を感じていた。
──そして、それが逆に気になった。
夜の間、ずっと守られていた。
安全な空間、食べ物、火、布。あらゆるものが揃っていたのに、どうして眠りは浅かったのか。
考えてみれば、リオは一度も“安心した”ことがない。
たぶん、あの夜ですら──ヴォルトは、ずっと起きていたのだろう。
小さな丘をひとつ越えたとき、ヴォルトが急に足を止めた。
何も言わない。ただ、少しだけ視線をずらし、近くの倒木を見た。
それだけで、「ここで休む」と言われたようなものだった。
リオは頷き、小さく息をつく。
足元の草を避けるようにして座り、革袋から水を口に含んだ。
ヴォルトは地面に腰を下ろし、何かを食むこともなく、ただ、背の高い草の向こうをじっと見つめている。
──休むなら、今しかない。
リオは、胸元の紐にかけたナイフに指をかけた。
革に包まれた柄が、指にひやりとした重さで応えた。
小さく息を吐き、立ち上がる。
刃を抜くと、かすかな金属音が空気を裂いた。
それに、ヴォルトが一瞬だけ目を向けた。だが、何も言わなかった。
リオは、構えた。
昨日、教わった“逆手”の持ち方。刃が腕の内側に沿うように、握る。
刃を見せない。構える、というより──立つ。
姿勢を取っただけで、背中に汗が浮いた。
足元が、ぐらついている。腕が、思った位置に止まらない。
頭では理解していても、体が従わない。
昨日の記憶は、すでに身体の中で霞んでいた。
──“守る構え”。
そう言われたのに、手の中の刃は、守るにはあまりに鋭かった。
気を抜けば、誰より先に自分を傷つけそうな刃だった。
右足を、半歩引く。
腰を落とす。膝を抜く。
肘を少し曲げて、肩の力を抜く──はずだった。
だが、身体は強張っていた。
刃を握っている右手が、震えていた。
──違う。
自分でもわかる。
「どこがどう違うのか」まではわからない。けれど、「違う」ことだけは、骨の中でわかる。
背後で、小石がはぜる音がした。
気配を殺すようにしていたヴォルトが、そこにいた。
「……もっと、左に」
言葉は、それだけだった。
だが、その声には、“見ている”という熱がこもっていた。
リオは足の位置を素直に修正した。
男はそれ以上、口を挟まない。
代わりに、近くの枯れ枝を拾い、火掻き棒のように振ってみせる。
──無駄のない動き。
音が出ない。空気が揺れない。
それでも、そこに“制止”の力が宿っていた。
リオは、目でそれを追い、刃を握る手に意識を集中した。
指に力が入りすぎると、逆に重心が逃げる。
肩が浮くと、視線がブレる。
「……ちがう」
再び、低く言葉が落ちる。
それは責めではない。“矯正”だった。
リオは歯を食いしばった。
負けたくないわけじゃない。ただ──“この動きの意味”を知りたい。
振るな。構えろ。守れ。
それはきっと、“逃げずに立つ”ということなのだ。
リオは、膝を落とした。
腰を絞る。肩の力を抜く。
刃を握る手を、ほんの少し下げて──視線を定める。
空気が静かになった。
風が止まったのではない。リオの中の、焦りと迷いが止まったのだった。
そのまま、足をひとつ滑らせる。
石を踏まず、草を裂かず──影の上を踏まず。
リオの身体が、初めて“戦いの形”を成した。
ぎこちない。未熟だ。けれど確かに、そこには意志があった。
無駄のない立ち姿。
肩の力は抜けていて、脚はぶれず、刃はまるで“在るだけ”だった。
リオは、構え直す。
刃を逆手に握り、腕の内側に沿わせる。
背を伸ばしすぎない。けれど、猫背にもならない。
──呼吸を、ひとつ。
そのまま、足をひとつ、滑らせた。
わずかに、音が消えた。
リオの体が、空気の“流れ”に馴染んだ。
まだ未熟だ。それでも──
さっきより、確かに「戦える気がした」。
けれど、うまくいかなかった。
森が開けたのは、昼も近い頃だった。
高い木々が徐々にまばらになり、代わりに低木と岩が目立ち始める。
道とは呼べない踏み跡が続くその先に、小さな丘があった。
ヴォルトは何も言わず、登り始める。リオも、それに続いた。
頂上は、開けていた。
風が抜ける。地形が変わった。草の匂いが、ほんの少しだけ薄くなる。
そして──その先に、町があった。
小さな町だった。
土壁に囲まれ、背の低い建物が並ぶ。屋根には苔が生え、白い煙がいくつかの家から立ちのぼっている。
遠くからでも、井戸端で話す人の姿がぼんやりと見えた。
リオは目を細める。
どこか、懐かしいような、居心地の悪いような匂いがした。
「……人の声がする」
ぽつりと漏れた声に、ヴォルトは振り返らない。
ただ、そのまま歩き出す。
坂を下り、町へ向かう。
柵の向こうには、門がひとつ。開いているが、門番がひとり立っていた。
ヴォルトは、その前でほんのわずかに歩を緩める。
無言のまま目線を交わし──門番は軽く顎を引いた。
会話はない。
けれど、そこにあるのは「顔なじみ」でも「信頼」でもない。
ただ、互いに必要以上の干渉をしないという、取引のような空気だった。
門を抜けた先には、石畳の路地が続いていた。
足元は乾いておらず、雨の名残がまだ残っている。靴に貼りつく泥が、町に入ったという実感を曖昧にしていた。
リオの目が左右に揺れる。
露店がある。商人が荷馬車の荷を下ろしている。犬の声。井戸の水音。
──“人の営み”があちこちに散らばっていた。
だが、ヴォルトの足取りは、まったく乱れない。
路地をひとつ、またひとつと曲がり、看板のない石造りの建物の前で立ち止まる。
建物の扉は閉ざされていた。
だが、扉の脇に刻まれた焼印のような印──“ハンターギルド”の証が、陽の光を受けてくすんでいた。
ヴォルトは、扉の前で足を止めた。
その背を、リオは数歩後ろから見つめていた。
何も言わず、何も問わず。
ただ、その背中に、もうすっかり慣れ始めている自分に──少しだけ、戸惑いを覚えていた。
構えることは、戦うことじゃない。
倒れることを恐れず、ただ立つこと。
言葉ひとつなくても、あの背中はそれを教えてくれた。
少年の手に刃はまだ重いけれど──
初めて、音の消えた一歩があった。




