第9話 静寂の夜に、眠らぬ背中
火の音だけが、この世界の続きだった。
風が変わった。
気温ではない。匂いでもない。
葉が一枚、裏返った。それだけで、ヴォルトは足を止めた。
森はしんと静まり返っていた。
蝉の声はもう止み、鳥も鳴かない。
枝の揺れ方だけが、かすかに違っていた。
後ろを歩いていたリオも、自然と立ち止まる。
何かが近い、という気配ではなかった。
ただ──“これから変わる”という、得体の知れない重さ。
ヴォルトは空を見ない。
風の通り道を目で追い、地面に片膝をつく。
土に指先を軽く押しあてた。深く沈む。雨前の湿り。
ふいに、足元に小石が転がってきた。
リオが振り返ると、すぐ傍の斜面に、岩の割れ目があった。
洞だった。
崩れかけた岩壁の一部。自然の裂け目にしては、奥が深い。
風がそこに吸い込まれ、また吐き出されている。
「……洞窟?」
リオが口に出すと、ヴォルトは一度だけ視線を送った。
それだけで充分だった。
雨は来る。だが焚き火は使えない。
それが二人の間で、共有された“前提”になった。
ヴォルトが洞の前に立つ。
手を入れない。まず、匂いを嗅ぐ。
次に、手袋を外し、指先だけで地表の温度を確かめる。
冷たい。内側に湿気がこもっている。
洞の入り口に、引っかいたような跡がある。
爪ではない。水の流れで削れたのかもしれない。だが深い。
人の目なら見逃す。けれど、ヴォルトは一瞬、動きを止める。
彼は石を一つ拾い、わずかに洞の奥へ放る。
音が返ってくるまでに、二拍あった。
広い。だが、形が歪だ。風の通りが読めない。
リオが息を潜めた。
ヴォルトは、洞に背を向けることなく、そっと歩き出した。
洞の裏手、苔むした低木の陰にしゃがむ。
異空間袋を開けるとき、音は立てなかった。
左手の中に、何か小さな硬いものがある。
金属の感触。古びた形。
何も語らず、それを懐に収めた。
彼は再び、洞へと戻った。入り口から少し奥、湿りの少ない岩面を選び、指先を走らせる。
苔を払い、地を探る。硬い岩質を確認するように。
ヴォルトは、右手の金属片を、岩に押しあてた。
表情はなかった。けれど、息をほんの少しだけ吸った。
ノブが、吸いつく。
石がわずかに軋み、音のない空間が、裂けた。
ヴォルトは、腰の袋から、もうひとつ、小さな包みを開く。
中には羽を広げた小さな鳥の彫刻が、対になっていた。
一つは、ノブの外、風の抜ける苔石の横へ。
もう一つは、何も言わずに腰帯の裏へ。
「……チ、」
鳥が、ひと声、鳴いた。
リオはそれを見ていた。何も言わなかった。
ただ、男の一連の動き──匂い、温度、音、そして判断の流れ──を、静かに見ていた。
その瞬間、森の中に、最初の雨粒が落ちた。
音は小さく、けれど重かった。
枝の上から、リオの肩へ。冷たい水が、服を濡らす。
振り返ると、男の背中はすでに半分、扉の向こうに消えていた。
リオは、あとを追うように、濡れた森から一歩、内側へと足を進めた。
扉の向こうは、空気が違った。
湿気はなく、音もなく、匂いもなかった。
リオは一歩足を踏み入れただけで、それが“この世界ではない”と直感した。
床は滑らかな黒い石。壁は岩に似ているが、手触りは温かい。
小さな暖炉が壁際にひとつ。火はついていないが、無造作に薪が置かれていた。
その隣にある調理台には、鉄製の鍋と平たい皿がひとつずつ置かれている。
灰も煤もない。誰かが整えたように見えて、しかし“人の痕跡”は一切なかった。
部屋の左右には、天井から吊るされた布製の大きなハンモックが二つずつ。
計四つ。どれも整えられており、寝具というより“物の配置”に近い。
快適そうではあった。柔らかく張られ、寝返りを打てる幅もある。
けれど、リオはふと、その“静けさ”に不気味さを覚えた。
彼は入口の方を振り返った。
ドアは閉まっていた。外の雨音は聞こえない。風の抜けもない。
まるで、音という概念がこの部屋だけ切り離されているようだった。
ヴォルトは、部屋の中心にある大きな切り株のそばにしゃがみ込んでいた。
槍を膝に置き、刃先を丁寧に拭っている。
火を灯す気配はない。手元は暗い。けれど、迷いのない動きだった。
リオは暖炉に近づき、そっと薪を組み直した。
乾いている。火打ち石を使い、薪に火を近づけると、あっさりと燃え始めた。
「……」
ヴォルトは何も言わなかった。止めもしない。ただ、視線を一度だけ焚き火に向けた。
火が燃える音がした。
パチパチと、薪がはぜる音。小さな焔が立ち上がり、空間にかすかな温もりを生む。
ヴォルトが、道具袋を一度だけ引き寄せる。
中から、乾燥野菜の包みと小さな革袋を取り出し、それをリオのそばに置いた。
言葉はない。が、それは明確な“作れ”という意志だった。
リオは無言で受け取り、鍋を取り出す。
水は暖炉脇の甕に満たされていた。ひしゃくで汲み、火にかける。
乾燥させた根菜をちぎり、少量の塩とともに煮込んでいく。
ゆっくりと、煮立つ音が部屋に広がる。
火の音と、鍋の湯気と、食材が戻っていく匂い。
けれど──外の気配は、やはり何も届かない。
リオは、湯気の中でひと息ついた。
味を確かめずに火を止め、浅い皿に注ぐ。
調味は最低限。それでも温かさだけで、喉がほぐれる気がした。
──外に出れば、もう雨は始まっている。
けれど、この中ではやはり、何も感じられない。
風も、匂いも、鳥の声すらない。
この空間だけが、音も匂いも切り離されているようだった。
まるで、火の音だけが“自分のいる世界”の証で、それ以外が全部、外側に押し出された感覚。
リオは火を見つめながら、思った。
この空間は“快適”だけど、“繋がっていないんだと”。
ふと、天井を見上げる。
暖炉の優しい光源で、部屋はわずかに明るい。壁の内側から、ぼんやりとした光が滲んでいる。
時間の感覚が狂う。朝か夜かも分からない。
この中に長くいれば、外の世界が“夢”のように薄れてしまいそうだった。
ヴォルトは道具袋を背後に置き、壁に寄りかかって座った。
しかし、完全には身体を預けない。
槍は横には置かず、膝に斜めに立てかけたままだ。
休んではいる。だが、眠る気配はない。
視線は動かない。けれど、その全身が、風のように静かに張っていた。
リオは、ハンモックの一つに手をかける。
布はしっとりと温かく、まるで人の体温が残っているようだった。
それでも、ためらいながら身体を預け、揺れに身を委ねた。
ふと、外に置かれたあの木彫りの鳥のことを思い出した。
気配を察して鳴く、不思議な遺物。
……でも、ここでは、それが鳴いても分からないのでは?
そんな不安が、ぼんやりと胸に浮かんでくる。
リオは一言も発さず、目を閉じようとした。
そのとき──
「……チ、」
小さな音が響いた。
どこからか。あるいは、頭の中に直接届いたようにも思えるほど、かすかな音。
リオは目を開ける。
ヴォルトが、立ち上がっていた。
無言のまま、入口へと向かう。
だが、扉には触れない。ただ、近くに立ち、わずかに耳を澄ませている。
数十秒ほど。
それから、何も言わずに戻る。
リオは訊かない。
けれど、分かった気がした。
──外に置いた鳥が、何かを“知らせた”のだ。
それが風の音か、獣の気配か、通り過ぎた枝の揺れかは分からない。
けれど、この空間にいては、それすら“音”でしか届かない。
ヴォルトは再び座り、槍を抱えるようにして腰を下ろす。
完全に目を閉じることはしない。
眠らない。けれど、休んでいる。
そんな姿を、リオは揺れるハンモックから見つめていた。
──この男は、信じていないのだ。
何も。
この部屋の快適さも、遺物の便利さも。
そして、自分の身体すら、完全には休ませていない。
リオは、揺れの中で目を閉じる。
快適なのに、落ち着かない。
──これが、ヴォルトが“使いたがらなかった”理由なのか。
そして、あの背中が“眠らない”ことを理解したまま、微睡みの縁に沈んでいった。
快適な空間に身を置いても、ヴォルトは警戒を解くことはなかった。
便利な道具に囲まれても、安心できるとは限らない──そう考えるように、彼は様々な遺物を使い分けていた。
安心は与えられるものではなく、自分で守るもの──その背が、そう語っていた。
リオはただ黙って、焔の向こうのそれを見ていた。




