005話『花弁の街の表拍』
・(2025.11.01)加筆修正を行いました。
・一刻=約2時間(一刻半なら約3時間)、西征の刻=午前9時頃
「……あれは魔物かしら? こんなに都市の近くまでやって来るなんて
エーデルダリアの常備兵は何をしている?」
港湾都市エーデルダリアの正門付近まで駆けたノイシュリーベは俄かには信じがたい光景を目の当たりとした。
正門より五十メッテの距離にヒトガタの魔物が三体ほどうろついていたのだ。
エーデルダリアほど大きな都市ならば昼夜交代で常備兵が配置されている筈であり、魔物が接近すれば即座に迎え撃つ体制が整えている。
にも関わらず常備兵が出動する気配は無い。
或いは意図的に都市から出ないよう指示されているのだろうか?
「(亡命者の巫女が襲われている時も常備兵どころか警邏隊すら動いていなかった)
(この都市の市長、セオドラ卿の意向なのだとしたら……)」
悪い予感が脳裏を過ぎり始めたが、兎にも角にも先ずは魔物の排除を優先するべきである。
誰もやらないのであれば、大領主であり騎士である己が率先して動くべきだ。
たとえ誰にも見咎められることなき戦果であれ、都市に近寄る脅威を看過するわけにはいかなかった。
それまで常足で移動していた白馬の馬足を上げるために短く手綱を振るった……しかし。
「ヒィィン……」
白馬が苦しそうな声色で鳴き、中々 疾走には至らない。主人の命令を拒否しているのではなく、純粋に体力の限界を迎えてしまっていたのである。
「フロッティ……ごめんなさい。
昨日からずっと全力で走らせ続けていたものね……」
苦しそうに呻く愛馬の名を呼び、頭を撫でながら謝罪した。
彼女達は本来、隣のグラニアム地方の城塞都市ヴィートボルグという都市に駐在している。此度は緊急の救出作戦ということで昨日の早朝より一昼夜に跨って此処まで駆け抜けて来たのである。
ヴィートボルグからエーデルダリアまでは通常なら三日以上は掛かる移動距離。
それを僅か一日で急行したのだから、相当の強行軍を強いてしまっていた。とはいえそれはノイシュリーベ自身も同じこと。彼女の疲労も相当に蓄積されていた。
「いいわ、貴方はそこで待っていて頂戴」
兜を被り、面当てを降ろすと白馬より下馬して地面へと降り立つ。
そして鞍に括り付けていた愛用の斧槍を両掌で掴み取り、三体の魔物へ向けて徒歩にて駆け出したのである。
そもそも『魔物』とは、広義の意味では常世に存在する生物や物質が高密度の魔力によって歪な変容を齎した成れ果ての姿とされている。
魔力とは惑星の息吹であり、ヒトを含めて多くの生き物はその恩恵に肖っているのだが、何事も過ぎれば致命的な悪影響を及ぼすというもの。
魔物と化した生き物は、より多くの魔力を求めて他の生物に襲い掛かったり、魔力資源を奪おうとする習性を垣間見せる。端的に云えば中毒症状に近い。
故に、独自の棲息圏に籠っている間はまだしもヒトの生活圏に近付いたのなら、速やかに駆除することが推奨されており、常世の常識でもあるのだ。
「(エーデルダリアは皇国内の他の属領から渡航していた者も数多く滞在している)
(都市付近まで魔物の接近を許すなんてことが広められてしまったら)
(このグレミィル半島の威信に関わるし、面目は丸潰れじゃない……!)」
たまたま都市に近付いて来たのだろう、哀れな魔物ではあるが為政者として見逃す余地など無い。ノイシュリーベは疲れた肉体に鞭打って魔物へと肉薄した。
矮鬼だった。純人種の背丈の半分ほどの大きさで、手にはそれぞれ棍棒のような粗末な武器を持っている。
グレミィル半島では主に南側の『人の民』の領域に棲息しており、山間部や広葉樹の生え渡る小規模な原生林などで見掛けるくらいだろうか。
多少の知能を有しているためか常備兵が居る都市や、警邏隊が巡回する街道などでは滅多に出喰わすことはないのだが……。
「……今回の件と併せて、後で市町をみっちり詰めておかないと!」
思うところは山程ある、しかし今は目の前の戦いに専心するべきだ。
全身甲冑の肩と腰部の草摺りを稼働させ、噴射口を後方へと傾ける。
この甲冑は魔具製の特注品で、ノイシュリーベの類稀なる魔力操作技術を駆使することで装甲の一部を自由自在に動かせるのであった。
特に肩の草刷りは二節から成る補助柱によって胴鎧と連結されており、同じ機構で腰部の草刷りも腰当てと連結されている。
この補助柱を動かすことで、前述のように装甲内に設けられた噴射口を任意の方向へと傾けることを可能としていた。
「ゴゥルボォ!?」
「ガィィヤ! ガィルルャ!」
「ギャッ! ギャギャ!」
遅蒔きながら甲冑を纏った騎士の接近に気付いた魔物達が口々に叫び声を挙げ、指差し、棍棒を振り上げて応戦しようとするが時 既にに遅し。
『――来たれ、尖風!』
駆けながら風を産み出す魔法を行使する。祈りと魔力を精霊に捧げれば、鍵語の発声だけで発動できる初歩の初歩たる風魔法。
然れど、ノイシュリーベはこの風魔法を限界まで研鑽し、己が纏う全身甲冑の特性を最大限に活用できる手管として練り上げていたのである。
ボッ ヒュゥゥゥ……!
甲冑内部で発生した風を循環させ、収斂させた後に装甲の各所に設けられた噴射口より解き放つ。さすらば甲冑を纏った人体すら途方も無い勢いで吹き飛ばすほどの推進力を発揮させるのである。
その速度は、瞬間的には音速をも凌駕する。
ノイシュリーベは戦闘中に断続的に豪風を噴射することによって常軌を逸する速力を維持したまま小刻みに方向を変え、縦横微塵に戦場を席巻するのである。
「ギャベェェ!!」
最寄りの魔物に接敵すると同時、擦れ違い様に斧槍を振り抜いて首を撥ねる。
間髪入れずに角度を違えた噴射口より豪風を放って二体目に近寄り、垂直に斬撃を迸らせて魔物の顔面から股先までを切り裂いた。
「ガィィヤァァァ!」
最後に残った三体目が棍棒を叩き付けようとして来た。
彼女の瞬間速度ならば躱すのは容易であったが連戦の疲労から億劫に感じてしまったので、雑に左掌のみを前方に突き出して対処する。
「……あの悪漢の大戦斧に比べれば、停まって視えるわ」
数刻前に交戦した『ベルガンクス』の長、バランガロンとの激しい戦いを想起しながら左掌に風の渦を纏わせた。
すると魔物の振るう棍棒の軌道が、風によって強引に逸らされたのである。
「……ッ!?」
突然の事態に何が起こったのか理解できずにいる魔物が驚愕の表情を露わにした瞬間には、その喉元に刃を突き穿たれて絶命していた。
こうして三体の不幸な魔物達は一瞬の間に討伐されたのであった。
「都市に近寄ることなく塒で静かに暮らしていれば良いものを……。
次に魂が巡った先では私達の輩となり得ることを願うわ」
戦いが終わり、死した魔物の魂に対して両掌を重ねて祈りを捧げた。
『人の民』と『森の民』の融和を目指すグレミィル半島に於いても魔物との共存は難しい。或いは常世のどこかでは共存を成し遂げた国があるのかもしれないが、一般的には奇跡に等しい状況だ。
とはいえ同じグレミィル半島で生まれ育った生命。
半島の頂点に立つ身として、せめてその魂が巡る先を案じることくらいはするべきだと弁えていた。
「……突風を起こして魔物の骸を除けておきましょう。
これが大型の魔物や魔獣だったら、一大事だった」
ノイシュリーベは正規式の叙勲を受けた騎士ではあるが、その膂力は信じられないほどに非力だった。
甲冑や斧槍の運用は魔法による補助があれば何とかなるが、純粋な力仕事である運搬作業に関しては矮鬼の骸ですら独力で運ぶのは至難を極めるのだ。
魔物とはいえ申し訳ないと思いつつも魔法による突風で都市の正門から骸を除け、後は現地の為政者に連絡して作業員なり冒険者なりを手配して片付けて貰うことにした。
[ エルディア地方 ~ 港湾都市エーデルダリア ]
グレミィル半島最大の港町は早朝から活気に満ち溢れており、少なくとも都市の正門から中心部に掛けて道行く人々の表情は一様にして明るかった。
この地に元から住んでいた純人種だけでなく、近年では『大森界』出身の亜人種……猫人や魚人、樹人、鬼人、妖魔といった種族の若者達の姿も目にするようになっている。
また本国の関係者や、洗練された文化を誇るトネリスナ領からの来訪者も年を追うごとに数を増してきており、行き交う者達の顔振れや身に纏う衣服を眺めているだけで、飽きることなく一日を過ごすことが出来るかもしれない。
そして要である港と、それに隣接する湾に目を向ければ、大小様々な船が絶えず入出港を繰り返している。其々の航路を進む多数の船舶の様子は放射状に広がっており、ダリアの花弁になぞられて都市名の由来ともなった。
「都市の正門付近で魔物をそれぞれ討伐した。
悪いけど大至急、骸を片付けておいて頂戴。これは大領主権限での指令よ。
それから……市長のセオドラ卿への面会を取り付けてくれるかしら?」
港湾都市に無事辿り着いたノイシュリーベは、その足で役所を兼ねるテルペス宮殿の入り口へと赴き、窓口で務める奉公人へ要件を伝えた。
早朝から勤務しているのは、あまり役職の高くない新顔であることが多い。
故にノイシュリーベの顔を知らない可能性があるので丁寧に説明していった。
「急な訪問であることは承知している。
市町の予定を優先した上で、午後の空いている時間帯に捻じ込む形で良いわ」
「か、かしこまりました!
グレミィル侯爵閣下に御自らご足労いただき何と言っていいのか……」
「私のことは気にしなくて良い。特別な歓待も不要よ。
貴方は貴方の、今日の務めを果たしなさい……用件は市町と話すから」
早朝一番にグレミィル半島の最高権力者が訪れ、腰を抜かし掛けていた奉公人を気遣いながら、用件だけを告げて一旦 テルペス宮を後にした。
彼女の立場からすれば市長であるセルドラ卿の元へ直接訪問しても良さそうなものであったが言葉通り急な訪問であるために、先方が段取りを整える猶予を与えることにしたのである。
勿論、先に一息着いて肉体と精神を回復させておきたいという思惑もあった。
疲労の極みに達しつつある状態では建設的な話し合いに臨むことは出来ない。
理想を言えば二~三日の休息を挟むべきだが、ヴィートボルグで処理しなければならない他の政務が山積みとなってしまうので、そうも言ってはいられないのだ。
[ エルディア地方 ~ 港湾都市エーデルダリア 『ソルヴァトン』 ]
裕福な客層が集う治安が保証された区画で営業している宿泊施設で部屋を採り、白馬と甲冑を預けた後に沐浴を所望した。
帰路に備えるなら白馬フロッティは最低でも半日は休ませたほう良いだろう。
グレミィル半島では古来より精霊を通じて魔法を扱う者が多く存在しているため、水の精霊との友誼を重ねる行為でもある湖水浴や沐浴の文化が根付いており、転じて街中で暮らす人々の清潔意識にも寄与していた……という背景がある。
時には貴人を遇する機会も多い宿泊施設なだけのことはあり、ものの数分で陶器製の沐浴槽が用意されて目一杯の澄水が張られていった。
透き通るような水質であることを確かめると、満足したノイシュリーベは手際よく衣服を脱ぎ、身体を洗って着水していく。
過去に騎士見習いとして八年間ほど厳しい修行時代を経験した彼女は、身の回りのことは一通り自力で熟すことができるのだ。
夜を徹して行われた作戦行動によって心身共に塗れた土埃と、血と汗の臭いとが諸共に洗い流されていく――
「……ふぅ、さっぱりした。
ありがとう、とても心地よい清らかな水でした。どうか受け取っておいて」
各段に身体と心が軽くなったような境地。
自然と表情が綻び、ようやく彼女は戦闘状態から解放されたのだ。
そうして沐浴を終えて、よく身体を拭いてから着衣を済ませると澄水に宿っていた精霊達に感謝の祈りを捧げた。
同様に、沐浴槽を用意してくれた宿泊施設の従業員へは労いの言葉と数枚のグレナ銀貨を手当として渡す。
自ら率先して臣下を率いて戦場を駆ける立場とはいえ、こういった場面での細かい気遣いは弟のサダューインと同じくエデルギウス家の一員として弁えている。
尤も、サダューインがエディンで支払うのに対して、彼女は旧イングレス王国の貨幣であるグレナ銀貨を用いるという違いはあるのだが……。
「(時間はまだ余裕があるし、一眠りしたら軽く何かお腹に入れておきましょう)」
部屋の壁に備えてある黒樫の掛け時計を見咎めて現在の時刻を検める。
時計の針は、西角の刻……一応、まだ早朝に分類される時刻を指していた。
これならば、一刻半ほど仮眠を採ってからでも食事を行う猶予は充分にある。
そう考えた途端、何だか急激に眠気が押し寄せてきたのである。
沐浴により身体と心は晴れ渡ったが、蓄積した疲労だけはどうしようもない。
「ふぁ~~」
自然と大きな欠伸が出てしまい、いよいよ休むべきだと判断した彼女はそのまま寝台に寝転んで安らかな寝顔を晒し始めた。
[ 一刻半後 ]
「……ん、そっか。エーデルダリアで休んでいたんだっけ」
騎士修行時代の鍛錬の賜物か、予め定めておいた時間通りに目を醒ます。
ノイシュリーベは隣領である南イングレス領の首府で厳しい修練を積んでおり、時には魔物や野盗の討伐のために数日間の遠征を経験していた。
当然、野営地では数刻置きに見張り役の交代が行われるために、時間通りに目覚められないようでは一流の騎士として認められないのである。
「取り合えず、着替えて何か食べに行きましょうか」
素早く身形を整える。衣服に関してはチェックインした時点で貴族用の衣装の貸し出しを申請しており、部屋の前に届けられていた。
富裕層向けの宿泊施設を選択したのはこういった理由も含まれていたのである。
これから市町であるセオドラ卿……セオドラ子爵家の現当主と面会するとなればまさか甲冑を着込んだまま臨むわけには行かない。
かといって甲冑の下に着込んでいるのは布装や鎖帷子といった戦闘用の装束だったので、これもまた面会には適さないだろう。
上品な純白の上着に上質な革製の礼服を纏い終えると、そこには何処へ出しても恥ずかしくない麗人の姿が装われていた。
「……今なら良い演奏が聴けるかしら」
部屋を出て、従業員に挨拶をしてから外へ出る。宿泊施設内の食堂を利用することも検討したが、どうせならエルディア地方の市勢を検める良い機会でもあるので自らの足で港湾都市の市街地へと出歩くことにした。
暫し散策の後に目に留まった飲食店へと入りオープンテラスの一席に腰掛ける。
~~~♪
するとノイシュリーベが座った席の隣では旅芸人と思しき獣人……この辺りでは珍しい狸人の男性が、分厚く大きな掌を巧みに動かして弦楽器を奏でており、周囲の客達を虜にしている最中であった。
彼が演じていた楽奏は、港町に漂う潮の香や漣の音を強調するような調べ。一時の憩いの場として店に立ち寄った者達の心を一つに纏め上げつつも新たな旅路へ快く向かわせるような不思議な旋律……。
騎士が戦いの後で空腹を満たすのであれば、音楽を堪能できる場というのは悪くない選択肢であり、実際にノイシュリーベはこういった食事を好んでいる。
誠に心地良い席であり、ささやかな幸福と安心を得て表情が綻んだ。
「(良い具合に音が乗ってるわね、弦を新調したのかしら?)」
などと考えつつメニュー一覧を見渡し、給仕に注文を伝えた。
彼女が選んだのは、牛肉と子羊肉とヘラジカの肉を合わせた肉団子に、芋を蒸かして磨り潰したものを和えた定番料理。薄く焼いた種無しパン。そして安価で流通している渋みの強い紅茶であった。
侯爵位に就く者が口にするには聊か以上に質素な食事だが、彼女はこういった素朴な料理も嫌いではなかった。
むしろ作戦行動の後の疲弊した肉体には豪華な宮廷風料理などよりも、こういった市勢の料理のほうが気兼ねなく食べることができるので有難く感じるのだ。
料理を待っている間にも旅芸人の奏でる音色は佳境へと移り、周囲の客達はますます演奏に聞き惚れている。
明らかに他の客層とは異なる、高貴な雰囲気を醸し出すノイシュリーベの存在すら気に留めなくなるほどに……。
それから数分が経過したころ、注文したものが木皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、この肉団子……味付けが独特ね。
皇国領産のスパイスか、それともナジア領や外洋から入ってきた新種の薬味でも
使っているのかしら?」
口に入れた定番料理の意外な味わいに驚きつつも満足しながら舌鼓を打つ。
適度な歯応えの楽しさに加えて肉本来の旨味と、刷り込まれている癖の強いスパイスの相性はなかなか悪くない。
やや肉汁が少なく、粗野さを感じる食感ながら一口一口を噛み締めて味わうことを好むノイシュリーベにとっては丁度良いと感じた。時折、肉団子の合間に摺り潰した蒸かし芋を挟むことで緩急を付けることもできる。
「(前に訪れた時よりも明らかに表通りを行き交う者達の身形が良くなってる)」
街を行き交う人々を眺めながらノイシュリーベは心地良い音楽とともに食事を堪能し始めた。その双眸は優雅なれど時に鋭く、為政者としての色が入り混じる。
多様な種族や他領から渡航してきたヒトが行き交う都市なればこそ、彼等の井出立ちや利用する店には明確な隔たりが生じるのは当然で、有体にいえば激しい貧富の差が他の都市よりも表層化する。
にも関わらず、ノイシュリーベの視界に映る範囲ではそれなりに裕福層な住人の姿ばかりであった。
小汚い冒険者や旅人も居るには居るが、彼等は一時的な滞在者に過ぎない。
「(……いいえ、貧困層の者達を不自然なくらい見掛けなくなっただけね)」
幾許か気掛かりな点を感じつつも木皿に盛られた料理をあらかた平らげる。
食後の紅茶を啜っていると、隣席の旅芸人は長時間の演奏の締め括りに入っており周囲からの喝采と大量の御捻りを貰って満面の笑顔を振り撒いていた。
「演奏、ご苦労様。これは私からの労いよ、一杯飲んでいきなさい」
自分が注文したものと同じ紅茶を頼み、旅芸人の席へと届けさせた。
彼の好みである砂糖……グレミィル半島内ではまだまだ高級品の部類に入るが、それもたっぷりと追加して。
「へへっ、まいどありー!
でもさぁ、侯爵様が一人で街中をうろつくとか、いい加減に勘弁してほしいね。
毒見役も連れて来てないようだし、何か起こってからじゃ洒落にならないよ」
手杯を受け取った旅芸人は、ノイシュリーベの身分を承知した上で気さくに言葉を返しながら、提供された紅茶を啜り始める。
どう見ても貴族とは思えない風采であり、本来であれば彼女と対等に話せるような存在ではない筈だ。
「あんたが居座ってる店なら、まあ危険なことは起きないだろうと思ってね。
昔から妙に危機を察する勘が鋭いから、毒なんて入っていようものなら
直ぐに発見してくれるでしょ?」
「そりゃまあ、その通りだけど。
ただ即興で魔奏に切り替えるのは結構、大変なんだよね。
こういった店に入るのなら一言くらい連絡や合図がほしいっていうか……」
魔奏とは楽器を奏でる音色に魔力と、精霊への祈りを乗せることで様々な効果を発揮させる魔法の一種である。
ノイシュリーベほどの存在感を放つ者を周囲の客達が気にする素振りすら見せなかったのはこの旅芸人の仕業。
認識阻害の魔奏を行使し続けたことにより、衆目を己に惹き付けていたからなのであった。
「悪かったわね……今日は何かと時間が足りなかったのよ。
この後はセオドラ卿と面会する予定が入っているわ」
「働き過ぎだよ。まだ詳しいことは聞けていないけど、
外国から逃げて来た巫女さんを救けに来たんだって?
ジェーモスのおっちゃんも気苦労が絶えなさそうだねぇ」
ノイシュリーベの補佐を務める騎士達の気苦労を想像すると同情を禁じ得ない。とばかりに溜息を吐く狸人の旅芸人。
それは同時に、彼が『翠聖騎士団』の騎士達とも面識があるということを意味している。
とはいえ、大領主であるノイシュリーベが直々に騎士を率いて急行しなければならない程の緊急の変事であることも理解しており、ならば必要な話を優先するべきであると弁えて少しだけ真面目そうに表情を引き締めた。
「それなら先に要件を伝えておいたほうがいいよね!
サダューインから、さっき伝書が届いたよ」
「……へぇ?」
弟であるサダューインの名を耳にした途端、一瞬だけノイシュリーベの表情が険しくなったものの、続く言葉を聞き遂げるころには元の顔に戻っていた。
「分かりやすいなぁ」……と旅芸人は内心で思いつつも、敢えて口に出して煽るような真似は避ける。
「彼が言うには、例の巫女さんは無事に保護したってさ!
様子を見て数日のうちにはヴィートボルグに送り届けるそうだ。
ノイシュとは、そこで面会させるつもりなんじゃないかな?」
「そう、相変わらず"あいつ"は自分の仕事だけは完璧にやってのけるわよね。
……まあ良いでしょう、救うべき者の安全が保障されたのなら文句はないわ。
私もなるべく早く帰還するように心掛けるから」
「ほいほい、じゃあそういう感じで伝えておくよー」
「……エバンス。
城に戻ったら、あんたにはまた色々と働いてもらうことになるかもしれないわ。 その心算だけしておいて頂戴」
「ん~~、なんだか面倒ごと押し付けられそうな予感!
まあ荒事じゃなければ大体のことは喜んで引き受けるけどさ」
おどけた様子で肩を竦ませながらも嫌がる素振りは一切見せない。
それが必要なことであれば、危険な仕事だとしても彼は遂行してくれるだろう。
「じゃあノイシュと市長が面会してる間にサダューインへの連絡を済ますとして、
おいらも一緒にヴィートボルグに向かったほうが良さそうかな?」
「ええ、そうして貰えると無駄がなくて助かるわ」
「うぃうぃ~。二人で街道を渡るのも何だか久しぶりだねぇ。
ああ……それと、これ一応 着ておいてね? 君は何かと目立つからね」
エバンスという名で呼ばれた旅芸人が、別れ際にフード付きの外套をノイシュリーベに手渡してきた。
「ん、いつも気が利くわね」
一切躊躇することなく受け取り、そのまま羽織る。
そして背部に備え付けられている被衣を目深に被り込むことにより彼女が人目を惹き付ける要因たる真珠の如き銀輝の髪と、秀麗な面貌が覆い隠された。
「君なら大丈夫だと思うけど、一応 気を付けてね。
セオドラ子爵は御父上……ベルナルド様とはあんまり仲が良くなかったからさ」
「ふん、分かっているわよ! ……出来れば会いたくない人物には間違いないわ」
そうして然るべき隠匿を施し、店員に料理の代金と個人手当を纏めて支払ってから店を発った。
正午過ぎの陽光がやや西の方角へと傾く頃には、市長が勤務しているテルペス宮殿へと再び足を運ぶのであった。
【Result】
・第5話を読んで下り、いつもありがとうございます。
狸人の旅芸人エバンスが登場したことにより、今回で主要登場人物が全員出揃った形となります。
・彼もまた様々なものを抱える人物の一人でエデルギウス姉弟とも深い関わりがありますので、どうか今後の活躍に注目していただければ喜ばしく思う次第でございます。
・さて、次なる第6話はセオドラ卿側の描写となります。
。群像劇を目指しているため時折そういった敵側のシーンを挟みますことをどうかご了承ください。




