パート・ド・ヴェールに祈りを
私の手に桔梗色の盃がある。
パート・ド・ヴェールという、嘗ては失われた幻の技法で作られた硝子の盃だ。
艶の無い、曇り硝子のような独特の風合いがある。
職人に、特に桔梗の花を連想させる色を、と注文して作ってもらった。
対として白い盃もある。
今回の件に一応の決着がつきそうであれば、聖とこれで酌み交そうと考えている。
それから私は何回か隠れ山を訪れた。
流浪の民である人たちと話をして、その生活振りを見る為である。
その、視察と対談に赴く際には必ず、楓が無事の帰還を祈るコトノハをお守りと称して処方してくれた。
彼女なりに思うところがあるようで、顔立ちが幾分大人びた。最近のコトノハの上達も目覚ましい。
出かける前の私に向けて、両手を合わせてコトノハを紡ぐ。
「このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに」
道祖神よ、幣(神に祈る為に捧げる物)の用意が無いので、代わりに紅葉の錦を進物として受け取ってください、御心のままに。
楓は百人一首のこの歌を、旅立つ私を守護するコトノハとして選んだようだ。
紅葉の錦、とは、私の無事を祈る楓の心を充てているのだろう。
隼太の物騒な性格にしては、隠れ山に移住した人々は穏健な気性の持ち主だった。
私が、犯罪や戦争に手を出すのでなければここにいてくれて構わない、と言うと、ある者は十字を切り、ある者は手を合わせて一様に感謝の言葉を述べた。彼らの国籍は様々だったが、中に一人通訳が出来る人間がいて、会話の疎通が為された。
……これまでずっと居場所無く彷徨ってきた人たちなのか。
どこにいても異邦人となり。
隠れ山が彼らにとって安住の地となるのなら。
桔梗色の盃に忘憂物が満ちる日が来るように――――。
その日、うちに帰ると玄関の前で、小鬼が犬槇の生垣の下から潜り、外に出るところだった。頭上には撫子の花を掲げていて、そのままととと、と横切って行ってしまう。
どこかに飾りでもするのだろうか、はたまた食べたりするのだろうか。
呑気なことを考えていると、出迎えてくれた聖が、難しい顔をしていた。楓もその隣にいて、二人揃って深刻な面持ちだ。
「何かありましたか?」
「……お客人です」
まず汗を流したいところだが、そうも行かないようだ。
客間には、長くカールした金髪に灰色の双眸を煌めかせた美女と、その斜め後ろにボディーガードのように金髪碧眼の男が端坐していた。私と聖がよく身を置く位置関係に似ている。外国人に正座は不慣れだろうに律儀だ。
そして二人共、折り目正しいスーツと背広姿である。
「アナタ、コトさん? 初めまして」
快活に言った女性に差し出された右手を、握り返すべきかどうかじっと見てしまう。
すると彼女が弾けるように笑った。
同い年くらいだろう女性の笑顔は花のように若々しい。
「何も、毒とか、ない」
女性は男を振り向いて同意を求めるように小首を傾げた。
それでも握手することは諦めたようで、温めの緑茶が入った湯呑みに口をつける。
どうやら先に、こちらは警戒していませんよ、とアピールするつもりのようだ。
「名乗りが遅れたね。ワタシの名はキャロライン」
「キャロライン。どちらに所属されている方ですか?」
金髪の彼女が微笑む。
「それ、秘密。秘密にスルのも、仕事の内。ノー名刺。ゴメンね」
成る程。キャロラインと言うのも、本名でなくコードネームかもしれない。
「紛争地域を穏便に収束させようとしてる。ソレは本当」
「急に日本語がお達者になりましたね」
「だってこの部分、いっぱい、練習したモノ。信じて欲しくて。彼が」
そう言って金髪碧眼の男を振り向く。
「音ノ瀬は侮れないって、言うカラ。一度、少年と、手合せ? して」
帰って早々楓は私に、先日、恭司と一戦交えたのはこの男であったと教えていた。
「ソウ、ビクター、驚いてたよ。おかしかった」
「それで今日は、何の御用で?」
はしゃいでいたようにも見えたキャロラインの笑顔が、話の核心に触れるコトノハで、す、と真顔に切り替わった。
「匿ってる罪びとらを渡してホシイノ」
威圧感すら漂わせながら彼女が言う。
「罪を犯したと言う確固とした事実を提示しなさい。話はそれからです」
「同じ能力、使えるカラ庇うノ?」
「窮鳥懐に入れば猟師も撃たずと申します」
「……?」
追い詰められて逃げ場を失った人が来て、救いを求めることの例えだ。
「私は彼らから直接に話を聴きました。確かに犯罪に抵触する行為を犯した人もいましたが、嬉々としてそれをした人は一人もいませんでした。皆、何がしかの必要に迫られてです。社会的弱者として」
中には軍事機密を違法に探り出してそれを商品とした者もいた。必要とする国に売るのだ。しかしそれも隼太の指示により、意味もよく解らずしたことのようだった。そういったことを考えれば、キャロラインたちが捕えたいのは隼太こそであるのだろう。
しかしそれは私たちにすら容易ではない。彼女たちはそれを承知の上で、まず他に、隠れ山に匿われている人間を確保したいのだ。
「ダカラ、罪許す、理由にならないよ」
私は頷く。
「仰る通り。ですが自分の懐に逃げ込んできた者をおいそれとは引き渡せません」
そもそも隠れ山やふるさとには、アジールという概念がある。
聖域にして自由領域、統治権力が及ばない地域――――。
「ドウシテも?」
「どうしても。彼らが今後、罪を犯せば別ですが」
キャロラインの灰色の双眸が検分するように私を凝視した。
口元には微かな笑み。
「コトさん。厳密に言うと現在の国際法には〝戦争〟という用語は無いの。けれど世界を見て。どこの誰が本気でそう思ってる? 戦争はまだ生きている。正式には戦争というネーミングでなくてもね。未だにその用語が効力を持つのは、貴方が匿っているような人たちのせいじゃないの?」
いきなり日本語が流暢になった。色々と探っていたのだろう。そして片言のコトノハであれば、こちらは情報を得にくくもなる。
「私はそうは思いません。彼らは寧ろ巻き込まれた側です。引き渡しもしません」
キャロラインの笑みが深くなる。
「……貴方、難しい人ね。解りました。では当分の間、私たちも彼らを見守るに留めます」
「キャロル!」
ビクターと呼ばれた男が抗議の声を上げる。
「ビクター。色んな考えがあるのよ。この世には。私たちにとってこの国が異国であるように。音ノ瀬の神秘は更に奥深い。性急に行動を起こすのは賢明じゃないわ」
ね? とキャロラインはビクターに笑いかけた。




