コトノハ縷々
俊介が久し振りに仕事の話を持ち込んできた。
以前は何かと言うとこちらに振ろうとしていた依頼を、うちに持ち込むのは実にいつ以来になるだろう。これまで大抵の場合はすげなく断っていたが、今回は受ける積りでいた。
恩を返す、という一念がそこにはある。
「躁鬱病の女性ですか」
「はい。コトノハ薬局にも向いていると思ったのです」
話はこうだ。
親を亡くしたそこそこの資産家の娘が一人暮らしをしているのだが、その精神状態がどうにも安定しない。見兼ねた兄弟が俊介の事務所経由で、コトノハ薬局にカウンセリングを依頼してきたということだ。
資産が絡めば人の心が乱れやすくもなる。
私は俊介の運転する車に乗り、件の女性の住いに向かった。
今回は聖までが来ることはあるまいと、彼は留守番だ。
聖は俊介を見て、私だから判る程度、ほんの僅か、不服そうにしていた。
幼い頃は何でも出来て何でも知っている大人に見えた聖が、今は人間めいた感情を私に垣間見せ、それが私を少し嬉しくさせる。
着いた家は温かいチョコレート色の屋根を持つ、小ぢんまりした洋館だった。
大きな柿の樹が植わり、一人で住むには十分、立派な住まいだ。
その女性、呉橋都は自室で藍色のネグリジェを着て上半身を起こし、私たちが来たのに目もくれず、ぼう、と窓の外を眺めている。
昼間は家政婦が一人、家の中を差配しているらしい。夜は食事を用意して帰ると。
「兄さんたちは来ないの……?」
都が、長い三つ編みにした髪をいじりながらぽつりと呟く。
「今回は私があなたのお話を伺うことを一任されております」
私は出来るだけ物柔らかに、都に語り掛けた。
しかし都の顔は一転、むずがる赤ん坊のようになって、いきなり、枕元にあったクッションを投げつけてきた。
「どうして兄さんたちが来ないのよ! やっぱり私が要らない娘だからだわっ、そうに決まってるっ!」
「都さん、落ち着いて」
家政婦の女性が宥める声も、都の興奮を助長させる一方のようだ。
都の興奮状態はしばらく続き、それが過ぎるとまた元の無気力状態に戻った。
私は窓際の小テーブルに置かれた、薔薇の活けられた硝子の花瓶を見た。
明くる日も、その明くる日も、都はずっとそんな調子だった。
「参りましたね。ああも興奮されては。躁鬱ってあんな症状でしたっけ?」
帰りの車の中で俊介が、首をひねりながら言う。
「……窓際の花瓶」
「え?」
「気づかれませんでしたか?」
「えっと、何のことだか皆目」
「確認したんですけど、窓際の薔薇の花瓶は、家政婦さんは手を触れていないそうです」
「――――それが?」
「もう暑くなってきたこの時期に、水は透明なまま。濁らず、茎をちゃんと切り詰められているんですよ。彼女は花瓶の手入れを、家政婦さんが帰ってから自分でしているのです。精神が不安定な女性にしては、行き届いた濃やかさでしょう」
「……と、いうことは……?」
「…………」
その日は行きしな、軽い天気雨、狐の嫁入りに遭った。
都は今日も血走った目で落ち着かなげに私たちを睨んだ。
私はそんな彼女に直截に切り出す。
「都さん。貴方は躁鬱病ではありませんね」
彼女の目が微かに見開かれ、は、と私を見る。
「貴方は病を装うことで、御兄弟たちにご自分を顧みて欲しかった……。そうですね」
都のコトノハの随所に見られた歪さは、それが理由だ。
けれど勝気な令嬢には、正直な感情の吐露が非常に難しかった。
それで今回のような事態にまでなったのだ。
「都さん。心をほんの少し、和らげてやってください。そうすることで、あなたの心の中枢から、最も大事なコトノハをこぼれ出させてやってください。大丈夫。お兄様たちにはきっと届きますよ。貴方が、心の病でなくたって。きっと」
都は長い三つ編みを両手でいじると、そわそわと視線を動かし、それから私の目を覗き込むように見た。
私は大きく一つ、頷いた。
「もし、貴方の心からの声がお兄様方に届かなかった時は、ご連絡ください。私がまた、こちらに伺わせて頂きます」
心が流血したら、コトノハを駆使してそのアフターフォローまでをするのが私の務めだ。




