天秤
最後の中でも最後の桜が散る。
花殻とも成り得ぬ花びらが風に吹かれ下草に落ち、若緑をも埋めなんとするように。
私は幹に手を当て、唇を寄せて囁く。
「綺麗に咲いてくれてありがとう。また来年もよろしく頼む」
今日は組紐で結った髪の毛先が流れて、桜の、少しばかり太くなった身を撫ぜる。
昔々、母の腕に戯れたように、私は額をこつりと幹につけた。
左手首の時計が目に入る。
もう喪われた時と、これから過ごす時と、どちらが長い針を持つか。
比較するのは無意味だ――――――――。
「立派な桜をお持ちですね」
客である老人が、客間から庭を眺めて呟く。
私にと言うより、思わず洩れたらしいコトノハだ。
彼は北陸、さる旧家の庭の花守を務めている。
先日、家の主人である老婦人が亡くなった。
コトノハ薬局の顧客だった人だ。
「お宅の枝垂桜ほどではありません」
私がそう言うと、彼は目を細めた。
お世辞ではない。
天に傘を差したような枝垂桜を、私は直に見たことがあった。
しかし老人は首を左右に振り、穏やかに反駁する。
「掛ける愛情に違いは無い、とね。この年まで花守をしていると判るんですよ」
私は微苦笑を浮かべた。
「……奥様は何と言い遺されたのですか?」
問われ、私は彼に答える。
「桜と同じように、子供、孫たちを見守ってください。彼らもまた、私にとって花なのです」
託されたコトノハを、寸分違わぬように再現する。
声紋の違いの有無は肝心ではない。
宿る想いを余すところなく表現するのが私に課された仕事だ。
録音ではない肉声で、これを伝えるよう私は依頼されていた。
心底から真情を処方し。
「そのように仰っておいででした」
「そうですか。――――そうですか」
繰り返されたコトノハの、二回目の語尾は震えた。
嘗ては恋仲であったという婦人と花守の間に、長年に亘り築かれた桜色の絆を見る心地だ。
結ばれずとも繋がる想いはある。
繋がるコトノハがある。
「それから、〝貴方に逢えて幸せでした〟と」
私はそう言い置いて、客間から縁側、縁側から庭へと歩を進め、視界の中心に桜の樹を据えた。
老人が憚りなく泣けるように。
上空を仰ぎ、目を閉じて、耳に入る嗚咽が聴こえない振りをした。
自室から聖も、この桜を見ているだろうかと考えながら。
〝貴方に逢えて幸せでした〟
ただ、その人に逢えた。
それだけで、幸いの人生だったと思えるような出逢いがある。
気づけば私にも、そんな出逢いが増えた――――。
ふとある人の面影が、脳裏をよぎった。
音ノ瀬千秋の家を出たのは音ノ瀬隼太のみ。
音ノ瀬大海と佐々木恭司は未だ預かりの身だ。
私が家を訪ねた時、大海は居間の畳にぼんやりと座っていた。縁側に置かれた揺り椅子に腰掛ける積りはないらしい。主の無い揺り椅子はやや寂しげだ。
「こんにちは」
「やあ、こんにちは」
大海は私を磨理と混同する時としない時がある。
会話の流れ次第でまだ油断出来ないが、今は区別がついているようだ。
「隼太さんの行方に、心当たりはありませんか?」
「花屋敷にいないのなら、僕には解らないな」
「そうですか……」
隼太を野放しにすべきでないと、聖は私に忠告した。
途切れた会話を再開すべく、私は口を開く。
「……彼は紫陽花色のコートを、とても大事にしていますね」
「あれは僕がやったコートだ。隼太が父さんのコトノハに、押し潰されそうになっていた頃。お守りだよ、と言って。当時はまだぶかぶかだったけどね」
それは少々、意外な話だった。
今までずっと、そのコートを後生大事にしていたのか。
隼太の人間らしい一面を垣間見た気がする。
「僕にはそれくらいしかしてやれることが無かった」
「隼太さんの心の支えになっていると思いますよ」
「そうか。そう思う?」
「ええ」
肯定すると、大海は子供のように無邪気に笑う。
その時、外から一羽の烏が飛来して、があ、と鳴きながら大海の肩に留まった。
「やあ、隼太。隼太は元気かい?」
ややこしいが、大海はその烏に息子と同じ名前をつけたらしい。
烏がまた、かあ、と鳴く。
音ノ瀬磨理に出逢えて、大海は幸せだったと思うのは、私の希望的推測だろうか。
少なくとも磨理は大海に出逢えて幸せだった。
二人の別れはとても遣る瀬無いもので。
大海は精神を病む程だったけれど。
それでも。
苦しみや悲しみを負っても、出逢いには恵まれた一生だったと。
私には、磨理と大海はそのように見えた。




