コトノハ遣いは嘘を吐く
部屋の隅に、布団の塊がある。
隼太は、その塊の前に盆を置いた。
「大海、喰え。粥くらいなら食べられるだろう」
塊の中から返答が返る。
「要らない。食べたくない」
「飢え死にする気か」
「それでも良い。どうでも良い」
「……母さんが悲しむぞ」
「お前が消した癖に」
「――――やってられるか」
隼太は舌打ちして荒い足取りで部屋を出た。
私は、客間の座卓に着いて、茶を飲んでいた。今日は気温がやや高い。晴れていて、洗濯日和だ。聖が、私の正面に無言で座っている。最近は、玉虫色の着物を着る率が高い。
物思いに耽っていた私のところに、隼太がずかずかとやって来た。
「どうかされましたか」
「大海に物を食わせろ。俺が何を言っても聴かない。埒が明かん。あいつは、お前の言うことならなぜか聴く。当分、面倒を見ろ」
権高な命令口調に、聖が咎める視線を隼太に向けたが、私は無言で立ち上がった。
磨理が消えて、大海は食事を摂らなくなった。動かない。入浴もせず、部屋の隅に蹲っている。生命活動を放棄しているように見えた。彼を心配する人間の声も聴こえない様子で、息だけをしているような有様。人の接近を拒み、隼太が無理矢理、食べさせようとしても断固として口を開かない。私が声を掛けると、反応が返る。接近も拒まない。食事も、勧めると辛うじて少量だが口にする。入浴なども、促すと気の進まない様子で済ませる。自然、私が大海の世話係となった。
「大海さん。入りますよ」
襖を開けると、布団の塊がもぞ、と動き、中から大海が顔を出した。青白く、やつれた顔だ。彼の前に置かれた盆に載った粥は、もう冷めているだろう。
「粥を温め直して来ますから、食べてください」
「……うん。――――行くの?」
「すぐに戻りますので」
「解った」
いなくなることに怯える口調に、胸が痛くなる。隼太は大海がこんな状態になってもまだ、自分のしたことを正しかったと思うのだろうか。彼は、彼なりに大海と磨理のことを考え、決断を下したのだろうけれど。
大海に食事を摂らせ、盆を手に戻ると、聖が手を差し出した。粥の入っていた土鍋を持つ。
「僕が洗います」
「有り難うございます」
聖に任せ、再び座卓に着く。
懸案事項が多過ぎる。私は神ではない。それらの全てを、丸く収める手腕など持ち得ない。長老たちの動きは、佐保子の襲来以降、途絶えている。長くはないモラトリアムだろう。
それよりも厄介なのが人の心である。
呼び鈴が鳴ったので、振り向いた聖を制して玄関に向かう。何となく、予想していた人間が立っていた。
「麒麟さん」
「ことちゃん、悪いけどしばらく泊めて」
彼の後ろには心配顔の水草。私は、一切の追及をしなかった。
「はい。お上がりください」
懸案事項の一つがやって来た。
麒麟が使う部屋に、荷物一式を運ぶ様子を見て、いつもより量が多い、と思う。彼はそれから客間に来ると、縁側に後ろ向きで寝そべった。
「……ことちゃん」
「はい」
「膝枕して。聖さん、俺、今、すげー弱ってるから目を瞑って」
聖は無言だった。私は溜息を一つ吐くと、麒麟の望むままにしてやった。着物の上に、生成りじみた長い白髪がある。
「昴には言ってある。音ノ瀬家なら良いだろうって許可が出た」
私が気に掛けることに先んじて麒麟が告げた。白髪を撫でてやる。麒麟が望む手は、私のものではないのだろうけれど。
「……心配されたでしょう」
「うん。あいつ、意外に過保護だからね」
「大事な弟だからですよ」
「桜姉さんが生きててくれたら、俺たちの事情もちょっとは違ったんだろう」
けれど桜はもういない。
「これから、どうなさるお積りですか」
「さあ……。国外逃亡でもするかな。ことちゃんたちに、知られちゃったし」
私の指摘したことが、麒麟を追い詰めるきっかけになったのだとしたら、私はひどい過ちを犯したことになる。知らぬ存ぜぬで、通すべきだったか。
「ことちゃんは悪くないよ。遅かれ早かれ、俺がぶち当たる問題だった」
私の後悔を察したように、麒麟が言う。
「けど、俺が抜けると戦力に大きな穴が出来るだろ。そこは、ごめん」
麒麟の言う通り、彼はこちら側の陰陽師サイドの中核だ。だが、そんなことも今は些末事に思えた。
「ことちゃんの膝、いー匂い」
「余り聖さんを刺激しないでください」
窘めると、はは、と麒麟が力なく笑った。
麒麟が部屋に引っ込んで、そろそろ昼食の準備に取り掛かろうとしていた頃。私の携帯が震えた。相手を確認して、私は縁側に行き、座る。恐らく黒電話の番号のほうに掛けて、私以外が出ることを懸念したのだろう。
「はい、もしもし」
『俺だ。菅谷昴』
麒麟の携帯に掛けてやれと言いたいが、彼は彼で思うところがあるのだ。
「麒麟さんでしたら、無事にお出でになりましたよ。しばらくうちでお預かりします」
『こと。あいつの様子が、おかしいことに心当たりはないか』
いきなり名を呼ばれてびっくりした。そういう、フランクな人間でもないと思うのだが。私のファーストネームを呼び捨てにするのは、かなでくらいのものだ。
「様子がおかしいのですか」
しれっと尋ねる。
『何か、一人で抱え込んで勝手に苦しんでる気がする。あいつはプライドが高いから、俺が問い詰めても吐かない』
「……ゆるふわなどの、話をされましたか」
『したが。何か関係があるのか』
ひたすら案じているな、と彼のコトノハから判る。
私は青い空を見て、大きく息を吸った。
「麒麟さんは、海外に行くお積りのようです」
『――――何だと?』
「数年は、帰らないと言っていました」
嘘八百。昴がコトノハ遣いでなくて良かった。
私は、しがらみのない空を見ながら、昴と話がしたかった。
「そのまま、居つく可能性がある、とも」
嘘を重ねる。私は業が深い人間だ。
昴は、自分のもとから永遠に麒麟が去ることをどう感じるだろうか。電話の向こうからは、唖然としているらしい気配がある。
『……あいつが、本当にそう言ったのか。菅谷も捨てて?』
「はい」
嘘だらけの私は、きっと地獄に落ちるのだろうな。
「失いたくない、とお思いでしたら、昴さんが直接、うちにいらして彼を説得してください」
多忙であろうが何だろうが。大切だと思うのであれば。
『こと』
「はい」
『信じられないかもしれないが、俺には麒麟が必要だ』
信じる。貴方にとっても、きっと唯一なのだろう。麒麟とは、色合いが異なるかもしれないけれど。
「麒麟さんに、直接、仰ってください」
『時間が出来次第、そちらに行く。それまで、あいつを頼む』
「承知いたしました」
通話を終えて、私は縁側に、身体を丸めてしゃがみ込み、目を閉じた。
ほとんど不可能のない、何でも成し得そうで、実は不器用極まりない兄弟。
――――――――彼らの心が救われることを願う。




