菅谷昴、多忙につき
告げ口めいたことをした自覚はあった。自分より、ずっと強い男が貫こうとする孤独に、憐れみを感じたのかもしれない。同情したのかもしれない。知れば、自尊心の高い秀一郎は不快に思うだろうと承知の上で、恭司は彼の窮状を誰かに教えたかった。彼が吸っていた煙草一本に、恭司はそれだけの危機感を覚えたのだ。
教えるとしたら相手は誰が適当か。
ことは論外だ。秀一郎の願いでもある。秀一郎に近しく、ことにも近い。近い、と言うよりことの隣にいる聖ではどうだろう。彼もまた恭司よりずっと強く大人で、何よりことを愛している。
そんな聖に、只、秀一郎が煙草を吸っていた、とだけ告げたなら、彼はどう思うか。聖であれば、過たず秀一郎の心情を汲み取るだろう。そして、それは事実となった。「禁煙することにしたよ」と、恭司に言った秀一郎の顔は和やかだった。何か、吹っ切れたような目が、鼈甲ぶち眼鏡の奥にある。恭司はそのことに、自分でも驚く程、安堵した。詳細は解らないが、風向きが良くなったと感じた。
初対面では敵対した恭司をあっさり受け容れ、一人前になるよう、万事を教え導いてくれた。秀一郎への恩に、少しは報いることが出来ただろうか。
菅谷家当主・菅谷昴は多忙を極めていた。一度は潰れるかに見えた菅谷家を立て直し、後、気を緩めることなく傘下にある企業経営にも携わり、本職である陰陽師としての仕事も請け負う。夜は夜で、音ノ瀬家にいる住人たちの、夢のパトロールがある。自然、過密スケジュールとなり、睡眠は隙間時間にとることになる。弟である麒麟は陰陽道にのみ突出していて、実務には向かない。会社経営の何たるかも解っていないし、興味のあることにしか目を向けない麒麟は、そもそも促しても動かないだろう。
藍色の大島紬を着て、広い自室の畳に置かれた文机の前に、胡坐を組んで座る昴は僅かな休息に束の間、息を吐いていた。
「どうぞ」
絶妙なタイミングで、緑茶の入った湯呑みが文机に置かれる。
「ああ、悪いな、桂」
「いいえ」
派手な蛍光黄緑のスーツを纏った道化のような青年は、昴が亡き父である祐善から継いだ式神である。茶を飲みながら、彼の襟元にある大きなリボンの中央、大振りなカメオに施された細工を見るともなしに見る。漁師が森の中、狩りをしている意匠だ。色は淡い緑。
桜がいれば、と思うことがある。今は故人となった、儚い妹。
兄の贔屓目を抜きにしても、優秀な妹だった。実務においても、陰陽道においても。今、生きていてくれたなら、頼もしい補佐であっただろう。彼女の式神であった、鷹の緑王丸の処遇に関して、昴と麒麟は多少、揉めた。桜は昴と近しく育ったので、その式神は当然、自分が継ぐものと昴は思っていた。しかし麒麟も姉である桜に懐いており、緑王丸を子供のように欲しがった。昴は多少、呆れたが、結局は麒麟に譲った。代わりに、父・祐善の遺した他の式神は全て昴に引き継がれた。
「昴様。お疲れのご様子ですが。ここのところ、ご無理をし過ぎではありませんか?」
「否定はしないがな。如何せん、代わりがいないから俺が動くしかない」
空になった湯呑みを文机に置く。
「恋人などは、お作りにならないのですか」
出し抜けに訊かれたが、昴は驚くのにも疲れていた。末期である。
素直に答えた。
「現状、そんな余裕はない」
「菅谷が絶えますよ」
「麒麟が妻帯して、子を作れば良い。優秀な跡継ぎが出来るだろう。菅谷は絶えない」
「……麒麟様は浮雲ですが」
桂の控え目な指摘に、昴は内心で確かに、と大きく頷く。麒麟が人並みに恋愛を経て結婚し、アットホームな家庭を築く未来図が想像出来ない。重なる疲れもあり、昴は深く思考するのが面倒になった。
「……桂」
「はい」
「ゆるふわ系の女に心当たりはないか」
麒麟のタイプの女性らしい。昴にはピンと来ないが。
「今時からはややずれていますね。そこらへんを歩いていれば、まだ生息しているとは思いますが」
「お前、クリスマスあたりにでも、あいつを引き摺って生息してるゆるふわ系を捜し出せ。見つけ次第、二人まとめてホテルにでも放り込め。俺が結界を張って閉じ込める」
「承ってもよろしいですが、やはりお疲れですね」
「…………」
自覚はある。桂が、物思う瞳で主を見遣る。
「私は式神です。式神が、自らの意思・希望を主人に物申すことは禁忌と考えます。しかし、あえてその禁忌を犯すのであれば、私は昴様に、心の拠り所を持っていただきたい。安寧の、場所を。昴様はお立場もあり、誰にも甘えようとなさいません」
「女に甘えろと?」
「私には解りかねますが、愛情は、人にとって生きる意欲をもたらす泉であるかと」
「…………そうかもしれないな」
ことや聖を見ていると、そう思うことがある。同時に、自分には縁のない話だとも思う。きょとり、と桂が頭を傾ける。
「昴様は金も力もある色男なので、その気になればどんな女性でもお好みのままですよ?」」
「お前、そういう言葉をどこで憶えた」
げんなりした昴に、桂が笑顔を向ける。
「まあ、その話はおいおい。夢のパトロールの件ですが、私や青虫、紫具羅にも代行できるかと思うのですが。そうなれば、昴様の負担も、多少は軽減されるのでは」
その発想を、昴は今まで持たなかった。右手を顎に当て、少し思案する。
「お前たちでどうこう出来る相手じゃないが……」
椎名たちは檻の中。異常がないか、確認するくらいなら問題ないかもしれない。何より、麒麟も同行する。
「――――麒麟と音ノ瀬に話をつけておく。あちらには術師やら何やらがごろごろいるから、万一ということもないとは思うが、麒麟とお前たちの手に負えない事態になったら俺を呼べ。寝ていても構わないから、叩き起こせ。良いな?」
「叩き起こさなかったらお怒りになられますか」
「うん。怒る」
桂は嘆息を漏らして、畏まりましたと告げた。
祐善の代から菅谷家の式神として仕えてきた桂から見ると、昴も麒麟もまだまだ若い。昴に良い伴侶が現れないかと、親心のように、つい思ってしまった。




