たかが煙草一本
「腕、上げて。採寸するので動かないで」
「寧ろ心の底から動きたい」
「……採寸するので動かないで」
「動きたいっ」
「縛」
問答無用で処方した聖のコトノハを服用し、麒麟は身じろぎ出来なくなった。聖は真面目な顔で、メジャーを手に麒麟の身体のサイズ確認をしている。例の、楓の着せ替え人形になると言った件である。殊に陰陽師が約束を違えるのは禁忌で、麒麟は生気のない顔で我が家にやって来た。楓と恭司がデートした日曜の翌日。月曜日の午前のことだ。あの、えせ和製天使野郎を、私はしこたま殴りたかった。が、久し振りの寺原田の来訪や、架橋さだめとの遭遇もあり、それは叶わなかった。
水草を伴い、うちに来た麒麟は、寺原田に貰った柿と栗を無言で食べていた。その表情はまるで最後の晩餐である。食べ終えたところで、聖が大きな布や紙を何枚も持ち、採寸に必要な道具一式を持って客間に現れた。
「……聖さん。訊きたくないけど。それ、何」
「君が着る洋服の準備材料だけど?」
聖が立つ縁側近くには、後ろから日が後光のように射しかかり、アルビノ青年はいつにも増して神々しく、口には優しい微笑を湛えている。
しかし、麒麟の目には悪鬼羅刹に見えたに違いない。聖の裁縫の腕はプロ並みである。夫の特技に、私も自慢のように誇らしく言い添える。
「聖さんはおおよその物は縫えるんです。麒麟さんが着られるサイズの女性ものの服がうちにはありませんので、聖さんに作っていただくことにしました」
「作っていただくことにしないで」
「この期に及んで見苦しいですよ」
「何でメンズじゃ駄目なの」
「そこはそれ。醍醐味です」
私も聖に合わせるように笑った。楓の為なら、うっかり人道からはみ出す自信がある。聖には、私もいくつか服を作ってもらったことがある。言わば副つ家ブランドのそれらは私の宝物だ。聖は手縫いで、恐るべきスピードで仕立て上げる。うちには電気ミシンがない。足踏みミシンならあるが、聖からは遠ざけている。足踏みなら大丈夫だろうとは思うものの、祖母の形見のミシンを、並外れた機械音痴の聖に壊されでもしたら悲しいからである。
採寸を終えた麒麟は、畳の上に伸びている。
「……ご臨終」
「してないし」
ぼそりと反論が返る。
生きながらえたようだが、彼にはこれからまだ幾多の試練が待ち受けている。
聖が座卓の上に、紙を広げる。
「麒麟君。何枚かデザイン画を描いてみたから、目を通して。気に入ったのや、逆に却下と言うものがあれば言ってくれ。仮縫いが出来上がったら試着をしてもらう」
「全部却下」
「……縛」
「ぐうう!」
麒麟でも聖のコトノハには敵わないのか。興味深い。分野が違うしな。
ここに、コトノハ遣いに虐げられる天才陰陽師が一人。
救いの手は誰からも差し伸べられない。
ノックして、恭司が社長室の扉を開けた時、飛び込んで来たのは意外な光景だった。
秀一郎がネクタイを緩め、シャツのボタンを二つ程外し、ジャケットはフックに掛けている。椅子に気怠げに座り長い脚を組み、何を思うでもない瞳で紫煙を吹かしていた。その在り様に、恭司は驚いた。いつも整然として隙のない秀一郎が、今はゆったり緩んで、コトノハ遣いには禁忌の筈である煙草を吸っている。
「午後の予定がキャンセルになったからね」
恭司の戸惑いに答えるように、秀一郎が言う。それからまた、静かに紫煙を吹かす。微笑を浮かべ、反対に恭司に訊いて来る。
「楓さんとのデートはどうだった?」
「…………普通に」
それだけしか恭司は言わなかったが、何となく察せられるものがあったらしい。
「彼女はまだ若い。君よりずっと。大切にしてあげるんだよ」
「音ノ瀬ことの為にも?」
「そうだね」
恭司は、最も欲しい少女の心を得られた。秀一郎が、ずっと昔から想って止まないことは、今では聖の妻だ。愛し合っている夫婦だと、恭司の目からも見える。
「――――秀一郎さん。ずっと、独身を通すの」
「うん。妥協で結婚するのは、相手の女性に失礼だ」
「あんただったら、いくらでも選べるだろう」
秀一郎が軽い笑い声を立てた。
「唯一が相手じゃないと意味がない。解るだろう? 恭司君」
「……だから、煙草を吸うのか」
そこで、秀一郎は、ああ、と今気づいたように、指に挟む煙草を見た。
「年に二、三本ね。コトノハの処方に支障が出るくらいの量じゃない」
そういうことではない。恭司は、そんなことを気に掛けている訳ではない。克己心も自制心も強く、己に厳しい秀一郎が、コトノハ遣いにとって少量の毒となる煙草を喫する所以に思いを馳せ、恭司はいたたまれない気持ちになった。
「あんたは莫迦だ」
「自分でも時々、そう思うよ」
「あんたがずっとそんなんだと、音ノ瀬ことも苦しむぞ。あれは、そういうのには弱い女だろう」
「…………楓さんが、君から離れても同じ言葉が言えるかい」
秀一郎が、穏やかな攻勢に出た。声には、責める気配が微塵もない。
「――――離れない。俺が、楓を離さない」
「彼女に、他に想う相手が出来て、君に別れを告げて去ることを望んでも?」
「許さない。あいつが嫌がっても、離さない」
しかし、そう言う恭司の顔は苦しそうに歪んでいた。
「…………そう」
少し意地悪が過ぎたかもしれないと、秀一郎は内省していた。恭司が、思いの外、鋭く核心を突くことを言うものだから。一見、粗暴にも見える恭司の感性は、実は鋭敏で繊細だ。ことという人間の、本質を掴んでいる。気を緩めていたのも事実だった。秀一郎とて機械ではない。時には、息抜きも必要だ。
「まずいところを見られてしまったね。今日はもう、上がって良いよ」
暗に、一人になりたい、と秀一郎は望んだ。恭司は正確にその意図を汲んだ。
部屋から出ようとノブを掴んだ時、秀一郎のコトノハが背中を追った。
「喫煙のこと、ことさんには黙っていてくれ」
恭司が振り返る。
「……他の連中には良いのか」
「余り良くはないけど。――――――――ことさんにだけは、知られたくない」
幼少からずっと傍にいて。ことを想い続けて自分を磨き上げ、彼女の為なら平然と危険にも身を投じる。心身ともに鋼のように強い男が懇願する。ことには知らせないでくれと。弱い自分を見せたくないと。
たかが煙草一本の汚点でも。




