ヘレポロス
雪の結晶を円やかにデザインした真鍮のコースターに、私は吟味した玉露を淹れて置いた。
上座に楓の母を名乗る美津子。
下座に私が座り、そのどちらからも等間隔の卓の横に楓が座っている。
皆、正座だ。
聖は縁側に端坐している。赤い瞳を、私にやや気遣わしげに向けて。
美津子は(私はこの名を聴いた時、美しい名だと思った)客間や聖の座る横の香炉、家の内装などをあけすけな視線で眺めた。
いつもは私を落ち着かせる月桃香が、今は胸をざわめかせる。
美津子は単刀直入に切り出した。
「あたしの娘を返して欲しいんです」
「…………貴方は、育児放棄されたのではないのですか」
指摘すると美津子はかっとしたように怒鳴った。
「人聞き悪いわねっ、やってられなかったのよ! この子、訳解らないことばっかりするし、旦那はろくに稼ぎもしない。仕方ないでしょう!? 余裕のあるおうちのお嬢様には解らない苦労が、世の中には山とあるんだからっ」
楓の顔は無表情だ。
どんな表情も出来ないのだ。
私の心臓が激しく痛んだ。
「……名前を、呼んであげてください」
「――――は?」
「お話は解りました。けれどまず、彼女の名前を呼んであげてくれませんか。……母の声で名を呼ばれるというのは、子にとって至上の幸福の一つです。それに貴方は、娘さんに素晴らしいお名前をつけられました。どうぞ、呼んでやってください」
化粧で整えられた美津子の眉が、険しく、また、心許なく歪んだ。
「何なのよ、あんた。名前が何だってのよ。良いわよ。楓、帰るわよ! お母さんと来なさいっ」
「……あの。御主人は」
「今頃、違う女とよろしくやってるわよ」
憎々しげに吐き捨てる。
つまり、楓に対する愛情が見受けられないのにここまで必死になるのは、一人親家庭の児童の為に地方自治体から支給される、児童扶養手当が目的だろうか。
おかあさん、の五文字のコトノハに、美津子の優越が滲んでいた。
楓がぎゅっ、と身体を縮こまらせて縋るように私を見る。
「〝ご挨拶〟に来てみたら。面白そうな展開になってるじゃないか」
愉悦を含んだ声が風のように駆け抜けた。
誰もが意表を突かれた。
隼太が、楓の身体を後ろから捕え、細い首に手を掛けたのだ。
「楓さん!」
千秋の監視の目を掻い潜り、逃亡したのか。
コトノハを処方しようとした私の機先を制するように、隼太が楓の首を大きな手でむんずと掴み、前に出して強調して見せた。
「お前や鬼兎がコトノハを処方する前に、俺がこの娘の首を折るぞ」
「…………」
「処方解除のコトノハを出せ、音ノ瀬こと」
「……」
「動くなよ、鬼兎」
縁側から隼太の隙を窺う聖に、隼太が釘を刺す。
迷う暇は無い。
「……わがこころにかなわぬもの……」
沙羅双樹の花の色と同様、これもまた平家物語の引用だ。
絶大な権力者である白河院が、それでも思うようにならないものがあると嘆く箇所だ。
私はそれを、コトノハ処方力剥奪解除の〝鍵〟にした。
コトノハは、我が心に適わぬもの――――――――。
ざわ、と隼太を強力なコトノハの波が取り巻いたのを知覚する。
本人も至極満悦の様子だ。しかしまだ楓を解放しない。
「お前らには世話になった。その礼に、このほそっ首を貰って行こうか」
「やめてください!!」
「縛」
「解」
聖のコトノハを隼太が退ける。楓がいるので攻撃的なコトノハは使えない。
「さあ。今の抵抗で俺の機嫌は損じられたぞ? どう贖う? ん?」
「な、何なのよあんた! 狂ってんじゃないのっ?」
私は錯乱して声を上げた美津子を庇うべく、彼女の前に回り込んだ。滑り込んだ、が正しいかもしれない。
「はっはっはっは。今まで放り出していた娘を手前勝手に返せと抜かす女が、埒外に俺を狂人扱いか。成る程。『人間の真の幸福とは心の持ち方、心的態度如何による』と言ったのはストア派(ギリシア哲学の一派)だったが、その信徒がいると見える。ではどうだ? 娘の為に、俺に癲狂治癒妙薬(狂気を癒す力があるとされた薬草)でも煎じて飲ませてみるか?」
隼太は完全に美津子や私をなぶる口調だった。
今や場の主導権は彼のものだ。
紫陽花色にすっぽり楓の身を包み、揶揄に口元を歪ませ君臨している。
そんな風情にすら、始末の悪い色香がある。
「そうだな。この子供を切り刻んでいくのも一興――――」
「待ってください、隼太さん」
「何だ、音ノ瀬当主。こいつの為に、俺に土下座でもするか? なら考えてやらんことも」
ない、と隼太が言う前に、私は彼の前に平伏――――――土下座した。
「こと様っ」
聖の叫びを無視し、隼太に乞う。
「隼太さん。どうか私に楓さんをください……」
娘を嫁にくれと懇願する男よりも尚、頭を下げて畳に擦りつけた。
客間は静寂に包まれた。
私は隼太が「諾」と言うまで頭を上げる積りは無かった。
やがて風が動く気配を感じると、楓が私に抱きついていた。
隼太が解放したのだ。
私は楓をきつく抱き締め、ようやく身を起こす。
恬淡とした無表情で隼太が私を見ている。
「癲狂治癒妙薬を飲んでも、お前の愚かしさは治らんだろうな」
そのまま去ろうとする隼太を聖がさせじと動くが、私は聖を制した。
私の思い違いでなければ隼太は――――――――。
美津子は放心して、その後、急に大人しくなり帰った。
結局、彼女は、楓と一度呼んだきりだった。厳しい声で……。
コトノハを取り戻す算段が主であっただろうが、恐らく隼太は、美津子に戦意喪失、心神喪失させる為に一芝居打ったのではないだろうか。
そこには私を試す思惑もあったろう。
紫陽花色のコートを繕った礼であれば、まさに情けは人の為ならず、だ。
私は紫陽花を慈しんだお蔭で、楓という宝を手放さずに済んだのだ。




