橋と娘
ようやく古寺の上り框に来た私を、待っていた聖が抱きすくめた。
それはやや引っ掴むような按配で、終始丁寧な彼にしては珍しい。
「こと様」
急いたように私の名を呼ぶ。ああ、風が教えたのか。
雨乞いの、彼の願掛けは叶った。
私の顔に雨は降った。
降り頻って、私の心底深くにあった固い凝りを融かした。
聖は、いや、楓も、秀一郎も、俊介も、きっとそれこそを望んでいてくれたのだろう。
……おかしいな。
虚空の吹き曝しの筈なのに。
この温もりは。
聖の腕が熱いというだけでなく。
「こと様。今日はこちらにお泊りくださいませんか」
聖に言われたコトノハを理解するのに、数秒掛かった。
顔を上げて聖を見る。
普段と同じように凪いでいるが、静かな決意の色。
澄んだ赤。
「貴方は、もうとうに、僕の心を撃たれていました。撃ち砕いて、全て、こと様が持って行ってしまわれた。僕は初めから答えを知っていたのです」
耳元に、吐息と共に熱い声。
私が撃ち砕きたかったもの。
それは聖の躊躇い、畏れ。
当主ではなく一人の女性として見てもらいたいという願いがあった。
「橋を。渡らせてくださいませんか」
求めていた聖のコトノハ。
ますます強く抱き締められ、私は脚の力が抜けそうになる。
以前より身長が伸びた聖の白髪が頭に掛かり。
大島紬からは微かに樟脳の匂い。
――――胸が苦しい。
しかし私は、聖の身を必死の思いで押し遣った。
「……すみません。今は楓さんに逢いたいんです」
「……そう仰ると思いました」
聖の声には微苦笑が滲んでいた。
寂しそうな声に、私の胸が痛む。
何か手に持っていた物を隠したようだ。
そう言えば渡したい物があると言っていた――――……。
事後処理が一段落した次は、正月の準備がある。
年賀状書き、大掃除、おせちの注文、等。
秀一郎も俊介もそれぞれに忙しいので、聖と楓と三人で大掃除を済ませた。
正月には明太子、イクラ、数の子、からすみなど、私の好物を揃える。
コレステロール値、塩分も正月ばかりは思案の外に置く。
そして正月は朝から酒が飲み放題なのだ(私の常識では)。
一族からの挨拶は元旦に手短に終えて、あとは自由の身である。
「ことさん、嬉しそう」
台所で一緒に数の子の皮剥きをやっている楓が言った。
数の子の醤油漬けを作る準備を、聖と楓と三人で、台所でやっているところだ。
結構、手が冷える作業なので楓にはやらなくて良いと言ったが、手伝ってくれている。
この、数の子の薄皮がぎざぎざに切れ込みがあるところまで、一気にべりべりと剥がれる時はかなり快感だ。
などと悦に入っていたので、楓がコトノハ爆弾を投下するなど思いも寄らなかった。
私と聖、両方の顔をおもむろにささっと見て、また数の子に目を落としてから言う。
「あのね、あたしね、一人でお留守番とか出来るから、ことさんとひーくん、どっかにお泊りしてきても全然、大丈夫だからねっ!」
お泊り。
珍しく、聖がむせた。
私も、持っていた数の子をぼとりとテーブルに落としてしまった。
つまりこの子は〝そういうこと〟はどうぞ気兼ねなく、と私たちに言っているのだ。
女の子ってませている。
また、子沢山の縁起物でもある数の子の皮剥きをしている時であるのがタイムリーと言うべきか。
呼び鈴が鳴ったのをこれ幸いと、私は玄関に向かった。
聖、あとは任せた!
引き戸を開けると、そこには赤い革のコートを着た若い女性が立っていた。
どこかで見たような美人だ。
彼女は私を値踏みするように見ながら言った。
「あたしの娘がお宅にいるって聞いて来ました」




