硝子戸につく雨粒のようなもの
もうすぐ盆だ。音ノ瀬家当主として、色々と為さねばならないことがある。非常時ではあるものの、譲れない慣習は、特に老人たちに向けて示しておかねばならない。
九倉重蔵から電話があった。流石に兄妹の長逗留を心配しているらしい。
「結界の影響もありまして」
私は軽く嘘を吐く。
『破れないあの子たちではない筈ですが』
「……由宇さんの容態が思わしくありません」
良心の呵責なく、嘘を重ねる。
『ああ、由宇が。そうですか。それはご面倒をお掛けします』
「いいえ。とにかく、お二人のことはこちらにご一任ください。悪いようにはいたしません」
『すみません。基本的な躾はきちんとしていると思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。こう言っては何ですが、音ノ瀬さんなら安心して任せられます』
「はい。お任せください。暑くなりました。どうぞご自愛ください」
『ありがとうございます。音ノ瀬さんも。お若いのによくやっていらっしゃる』
「恐れ入ります。それでは」
チン、と黒電話の受話器を置く。台風の影響か今日は比較的、涼しく、私はスワトウ刺繍の薄い水色をした着物を纏っている。客間に戻ると恭司と俊介が座っていた。珍しい組み合わせは示し合わせた訳ではなく、偶然だ。二人共、事の次第をしっていて、そして同様に憂いている。俊介は胡瓜と茄子を持って来てくれた。色艶の良い、季節ものだ。
「すみません。電話、終わりました」
「大丈夫ですか?」
「はい。九倉重蔵さんからでした。当分は、私に二人をご一任いただけると言うことで」
二人の、秘めた想いに関しては俊介にも恭司にも語っていない。空になった、カルピスの入っていた硝子コップの中の氷をカラカラ涼しく鳴らしながら、恭司が小首を傾ける。彼は勘が良い。何か察するところがあるかもしれない。私は表情を読まれないよう心掛ける。
「お二人共、お飲み物のお替りは」
「俺は良い」
「俺も大丈夫です」
恭司が、段々と大人の男の顔になって行く。和製天使の面影が薄くなる。これでは和風の、整った面立ちの聖人のようだ。彼が、その眼差しをひた、と私に据える。
「俺に出来ることはないか。楓に危難が降りかかる可能性があるなら、排除しておきたい」
私は顎を摘まんで少し思案する。
「恭司さんに呪術の素養はありません。コトノハと刀で対峙するには難しい相手ですが、或いは貴方ならそれを成し得るでしょう。いざとなれば戦力になっていただきます。今は、秀一郎さんの元でお仕事に励んでください。私との稽古は今まで通りに」
「……解った」
「俺には何かないですか、ことさん」
「俊介さんも今まで通り、長老たちと、それから椎名たちの捜査を。小さな手掛かりでも構いません。後に大きな益となって返る可能性があります」
「解りました」
楓が来て、空になった硝子コップを下げた。それから、クッキーの入った花柄の菓子箱を持って来て恭司たちに勧める。恭司が土曜日に来たのは、楓の顔を見たかったと言う思いもあるのだろう。私は三人の様子を微笑ましく眺め、それから空を見た。暗色の雲が垂れ込め、細かな水滴が縁側の硝子戸に付着している。微細に非日常から切り取った、こうした日常は得難く、宝箱に仕舞う心地だ。
戦禍はもう、すぐそこまで来ている。
やがて今を振り返り、良い時間だったと感じるのかもしれない。その時に喪われている命が、一つもないことを私は祈念する。何の為に力を授かったかと言えば、こんな時の為だ。振るう刃で守りたいものがある。どうしてもそれは譲れない存念で、一つ、間違えれば私は己を呪うだろう。今が良い時代だったと言えるのは素晴らしいが、未来もまた、同じくあらねばならない。私が抱くのは、私自身からすれば大望なのだが、なぜだか人には小さくも見えるらしい。硝子戸の雨粒が、小さく見えるように。人の視点とは興味深い。台風は緩慢に着実に迫って来ていた。




