起き抜けに嫁
誤算。撤退。
その単語が敦盛の脳裏をよぎる。これは計算外だ。
よりにもよって、菅谷麒麟。有数の術者そのものではないか。芳江相手の時にも走らなかった戦慄が背中を駆け抜ける。麒麟は、そんな敦盛の胸中にも頓着しない風情で、悪趣味、と呟いている。不機嫌の滲む声は、捕食者のそれだ。手には青竹。
「芳江さん。もうちょい、踏ん張れる?」
「もちろんや、麒麟君」
「オッケー」
その遣り取りの間にも、空間のせめぎ合う気配が感じられた。麒麟と、この夢を作り出した術者との競り合いだ。そう悟る、僅かな隙を突かれる。芳江の鉄杖の先端が腹部にめり込み、敦盛は後方に吹き飛ぶ。
麒麟は何も言わなかった。只、青竹の口を敦盛に向ける。
敦盛の身体が、青竹に吸い込まれる。
素早く封をして麻糸で巻いて縛り、九字を切る。封印して縛る最中、呼吸は禁じられている。息をすれば最初からやり直し。だから封印をし終えた麒麟は、大きく息をした。それから芳江を見る。
「芳江さん。早くここから出て」
「そいつ、殺さへんの?」
「残念そうに言わないでよ。まだ使いでがあるんだからさ。……ここの空間を作り出した最低の術者野郎にも、繋がる手掛かりだ」
「……なら、ええわ」
「じゃあ、ここ、〝壊す〟よ」
麒麟が、青竹を持つ右手とは逆の左手を掲げる。赤黒い世界に、眩い光が満ちて、芳江は目を細めた。
覚醒の瞬間、気分は最悪だった。
悪酔いしたような気分だし、右腕からは出血が止まらない。何とか身体を起こす。全身、汗を掻いている。
バン、と芳江の部屋の襖が開いた。
撫子が仁王立ちしている。
「芳江。何かあったんか!」
恰好悪いところを惚れた女に見られた気まずさがある。
「夢で仕合うた」
「長老か?」
「椎名派らしい。麒麟君が封じてくれたわ」
「コトノハは使わんかったんか」
「あー。忘れてた」
「阿呆! 癒」
何はなくとも、と撫子が芳江の腕を治癒した。状術の技を頼む余り、コトノハの処方が疎かになるのは、芳江の悪癖だ。他の家人たちも起きてくる気配がある。廊下の電気が点けっぱなしだったし、撫子の、襖を開ける音はかなり大きかった。
「……撫子」
「うん?」
「生きとるな」
「当たり前やぼけぇ」
夫婦漫才が繰り広げられている。
私は、物音と、只ならぬ気配に飛び起きて、勘の赴くまま、芳江の部屋に出向いた。何事かがあったのだと思う。撫子が、気丈に振舞ってはいるが、動揺の名残が見られる。
「芳江さん」
「こと様……」
「何がありました」
部屋の電気を点けると、布団に赤い血の跡があった。素早く芳江の全身を一瞥する。右腕部分の袖が切れて赤く染まっている。傷はないところを見ると、撫子が治療したのか。
「椎名の一派とやり合いました。危なかったんですけど、麒麟君が介入して、相手を封じました」
「筒封じ?」
「多分それです。敵方の手掛かりになる、言うてましたわ」
そう言って、俯く。心にひどく切迫したものがあったことが窺える。普段は賑やかな撫子が、そんな芳江を見てからは黙って髪の毛を梳いてやっている。
「シャワーを浴びて汗を流してください」
「こと様。これを」
聖が差し出したのは、冷えた葡萄ジュースだった。芳江に渡すと、美味しそうにそれを飲む。集まった面々に、ほっとした空気が流れる。意外にも、こんな時、芳江を質問攻めにしそうな隼太は、口を噤んで芳江を見ているだけだった。




