叛意なき名跡
ふるさとに行くのは大好きで、伊勢と出雲に行くのは気が重い。それは子供の頃から変わらない。場所柄はいずれも好きなのだが、顔を合わせる相手に随分と隔たりがある。私は我儘な子供ではなかったが、とても嫌なことがあると、庭の桜の樹に登ることがあった。その昔、次期当主として両親と伊勢・出雲に行くことが決まった時も登った。結局は両親に窘められて、渋々、樹から下りたのだが。
〝ことは伊勢殿と出雲殿が嫌いかい〟
父は穏やかな声だったが、私は責められているように感じた。
〝……ううん。怖い〟
あの頃、両親は私にとって絶対的な存在だった。その両親が重きを置く伊勢殿と出雲殿が、私には畏怖すべき対象として映ったのだ。決して権高な人たちではない。けれど相対していると圧迫感がある。息をするのが苦しいとさえ思われるのだ。両親も彼らを好いていた訳ではあるまい。端的に言うならば、政治だ。不可抗力として付き合わざるを得ない人たちだった。
「全ては音ノ瀬を守る為……」
あらかた荷造りを終えた私は例によって縁側に座り、葉桜を眺めていた。今日は寒い日となる予報だったが、初夏にしてはと言う程度で、十分に暖かい。あの桜の枝に在りし日の自分を見出す。青い空は黄砂の影響かやや霞がかり、風が遠慮がちに吹く。音ノ瀬に叛意は無いと示しておく必要がある。神祇官にあった古代より、ともすれば危険視される恐れのあった音ノ瀬が、生き延びていく方法。服従を示すこと。牙を覗かせれば滅亡の憂き目に遭うのは、他の有力氏族の末路を見れば明らかだった。それでなくとも音ノ瀬は朝廷を脅かすと恐れられていた。いつ、叩き潰されても不思議ではない。コトノハを処方する一族の人間が、時に理不尽な扱いを受けながらも今日まで存続し得たのは奇跡に等しい。だからこそ私もまた、当主としての務めを果たさなくてはならない。面従腹背、大いに結構。こうした重責を、いずれは楓も担わなくてはならないのかと考えると忸怩たるものがある。
「体調は如何ですか」
劉鳴殿のアメカジスタイルは今日も決まっている。妙に似合うから厄介でもあるのだが。
「好調です」
劉鳴殿は音ノ瀬の、言わば傍流であり、伊勢殿や出雲殿との直接的関わりはないのだが、私は旅の同行を頼んだ。何はなくとも、いてくれて心強い人であるのは確かなのだ。
「旅には和装でお願いしますね」
「承知していますよ。しかし、ことさん、動いて本当に大丈夫なのですか。何だったら僕や聖君たちだけで済ませても支障ないでしょう」
「いえ、流石にそろそろ顔を出しておかなければ。師匠たちがいればそれだけで心強いです」
紅玉が探るように煌めく。私は余り信用がないようだ。
「楓さんは同伴しないのですね」
「学校がありますし、伊勢殿たちの気に当てられるかもしれませんから」
「大丈夫だと思いますが。ことさんは楓さんのことになると過保護ですね」
「そうかもしれません」
否定出来ない。
「そこまで先方に義理立てしなくてはいけませんか? 音ノ瀬は皇祖皇宗とは無縁でしょうに」
「無縁だから警戒されるのです。全く新たに覇を唱えるのではないかと」
「神経質ですねえ」
「そんなものです」
「まあ、伊勢うどんは楽しみですねえ」
「そうですねえ」
麺類は大好きです。以前、食べた伊勢うどんも美味しかったです。




