二回目の呪文
ガスコンロの下の収納戸棚から中華鍋を取り出して立ち上がると、急にくらりと来た。視界が真っ白になって、重い物が落ちる音が響く。その時はたまたま、夕食のつまみ食いをしようとしていた劉鳴殿がいたので、抱き留められた。客間で座卓の上を拭いていた聖が駆けつける。撫子や摩耶も作業の手を止めて来た。ここに芳江や景がいないのは、邪魔になると言って女性陣にすげなく追い払われた為であり、決して男尊女卑ではない。なので、劉鳴殿も邪魔にされていた。その劉鳴殿が真顔になっている。
「大丈夫ですか、ことさん」
「平気です。少しくらっとしただけで」
「貧血ですね。横になりなさい。聖君。布団を」
「はい」
「いえ、大丈夫です」
「無理はいけませんよ」
私の弱い紅玉の瞳が真摯に光っているので、それ以上は言えない。撫子たちも神妙な顔をしている。心配などさせたくないのに。私は、台所の小窓の手前に置かれた、小さな備前焼を見る。菫や蒲公英が彩り鮮やかだ。小さく稚い命が、今はとても愛おしい。私は聖と一緒の寝室に運ばれた。一人では危なっかしいと思われたのだろう。信用がない。浴衣に着替えて横になり、息を吐く。聖だけが残った室内で、釣忍の音とたどたどしい鶯の声が聴こえる。外は薄暮の頃合いだ。
「ご気分は悪いですか」
「吐き気が少し」
「洗面器を持って来ますが、何でしたら僕が手洗いまでお運びします」
「大袈裟ですよ」
「撫子さんたちが心配します。もう楓さんも帰るでしょう。かささぎ君も」
楓とかささぎの名前が出ると弱い。かささぎは最近、楓の登下校に付き添ってくれている。恭司がいよいよ社会人として忙しくなってきたからだ。私は枕の上に漆黒の扇のように広がった髪を意味もなく弄りながら答える声を彷徨わせる。観念して大人しくしているしかないらしい。私は、聖の玉虫色の単衣の袖をツン、と引っ張った。聖は黙って私の額に手を置く。私より少し高い体温が、今は安らぐ。どことなく悪寒がするのは、やはり貧血のせいだろう。
「今日は麻婆豆腐を止めて餡かけにするそうです」
胡麻油の匂いを強く漂わせないように、と言う意図が見て取れる。私への気遣いだ。情けなくも不甲斐なくもあり、私は宙に視線を据える。やはり女にとって、流産と言うものは大事なのだと、改めて思い知らされる。医者からは、次の妊娠は難しいかもしれないと言われた。その時、共にいた聖は私の手を強く握った。私はそんな彼の手をやんわりと握り返した。
「貴方がいれば、僕はそれで良いのです」
聖がこう言うのは二回目だ。魔法の呪文のようだ。許された気持ちになる。私は目を閉じた。餡かけの、優しい匂いが流れて来る。
そろそろ乱刃血縁編も完結、新しく神代ひもろぎ編が始まる予定です。
恐らく、そこでコトノハ薬局は完結するかと思います。




