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コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
花屋敷編 第四章
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忘憂物を飲みながら

(さん)(りゃく)!」


 がしゃん、と隼太が拳で叩き割ったティーカップの大小の破片が、礫と化した霰のように鋭く白く、私を襲撃する。


「しづ心なく花の散るらむ」


 カップの破片は私のコトノハによって、花びらのように儚く、なよやかに落下した。

 ひらり、ひらりと。

「コトノハを処方するからと言って慢心があるんじゃないか? 御当主様」

「例えば?」

「俺はお前がコトノハを発する前に、このテーブルの上を一っ跳びしてお前の顔面に掌底を喰らわせ、鼻骨を陥没させることも出来る。現代の有名な諜報機関ではよく知られた手だ。簡潔に殺す時間を短縮し、音を立てず終わらせる。殺し屋のやり方としては理想的だろう? 俺は酒を飲むぞ。〝げにも酒なる飲料(のみしろ)こそは忘憂(ラティ)(カデア)にすべし〟だ」


「……セメレとゼウスの御子なる神が人間(ひと)(うから)に賜りしもの」


 私が呟くと、硝子戸棚をきいと開けて、美しいデキャンタボトルを取り出した隼太が笑う。見覚えのあるボトルの意匠はレミーマルタンだろうか。

 ワイングラスを二つ持っている。割ったティーカップはとりあえず放置するらしい。


「詩人・アルカイオスの言葉だ。流石に知っているな。エラスムスの『痴愚(ちぐ)(しん)礼讃(らいさん)』に引用がある。エラスムスはルネサンス期のヒューマニストで、反戦論者の先駆者だからな。お前はお気に召しているだろうと思ったぞ」


 私の目の前に、(ステム)の長い、透明な水鳥のようなグラスが置かれた。


「そうですね。彼が1536年に亡くなった時には、私も涙したものです」


 隼太が琥珀の液体をグラスに注ぐ手を止め、私を見た。


「冗談ですよ」


「俺に度量を見せたいか? ただ堅物なだけの女だと思わせたくなければ、酒につき合え。少しばかりのアルコールをこれからの議題の供とすれば、良い緩衝にもなるだろう」


 私は背筋を伸ばした。

 傷だらけの男が、傷だらけの話を(ひもと)いたのだ。

 そして更にまだ、先がある。


「頂戴しましょう」


 口に含んだのは極上のブランデーだった。

 レミーマルタンの中でも、上等ではないだろうか。

 

 ブランデーが身体を駆け巡ると、私の心に円やかな膜が出来た。


 同じようにグラスを傾ける隼太。


 室内には紅茶とブランデーと、硝子張りを通しても主張する花々の香りたち。


「おじい様を恨んでいますか?」


「当然だ。俺の精神を解剖するようなことしやがって。だが、惨めな嘘吐きではあったが、そう嫌いでもなかった。隼人は一種の狂人だったが、熱情も暴走も解らなくもないし、コトノハに自己同一性を求めたのも自然の理だろう。人より抜きん出たナイフを持てば、誰しも誇らしくなるもんじゃないか? 俺は強く、特別だ。そう思いやすくなる」


 その口振りで、おおよそ予測は出来たが、私は尋ねた。


「戦争がお好きですか?」


「お好きだが?」


 隼太がにや、と笑う。それだけの目に遭って尚――――――――。


「戦争はお嫌いですか?」


 今度は、隼太が私の口真似をして尋ねる。


「〝戦争は人を殺す。それが全てである〟。アメリカの政治哲学者・マイケル・ウォルツァーのこの考えに、私も同意します」


「ふ。所詮は女か」


「所詮は女ですよ。貴方が、所詮は男であるように。所詮は人であるように。所詮は命であるように」


「――――音ノ瀬こと。情報と人心の操作。世論と戦争のコントロール。コトノハを用いればそのいずれも、叶えるは容易いぞ」


「興味ありません」


 ブランデーを飲んであっさり答える。


「好きで持って生まれた力でないのに、疎外される理不尽を無くしたくはないか?」


 私はグラスをひたり、とテーブル上に置いた。

 ここで私が「否」と答えよう筈も無い。本心はどこまでも「是」だ。

 だがそれを口にして、隼太のペースに巻き込まれる訳にも行かない。


「武力と暴圧を否定しながら、既にお前の存在はその領域に踏み込んでいるのではないか?」


「…………」


「お前は平和と抗争のあわいに立つ女だ。アジール、という言葉を知っているな?」


「聖域にして自由領域、統治権力が及ばない地域を指す言葉です。避難所にも成り得る土地。――――ふるさとや隠れ山に近い性質があります。平泉(ひらいずみ)(きよし)氏や網野善彦(あみのよしひこ)氏らの研究分野ですね」


「お利口で話が早い」


 ここで隼太が席を立ち、硝子戸を開け放った。

 舞い込む外気と、一層、濃厚になる花の芳香。

 そして、一羽の烏が飛来し、隼太の差し出した腕に留まった。


 随分と懐いているらしい。

 ソファに戻った隼太に、黒く艶やかな頭を摺り寄せている。

 瞳が、とても円らだ。



「俺は俺の望むアジールが欲しい。フォーゲルフライ……、鳥のように自由で、それでありながら力を有する、俺たちだけの聖域だ……」


 夢を見る眼差しで、隼太が静かに言った。

 その時ばかりは彼も憂いを忘れたように。








挿絵(By みてみん)










エラスムス:オランダ出身の司祭・人文学者。

アルカイオス:紀元前六世紀頃、古代ギリシアの叙情詩人。

『痴愚神礼讃』:痴愚女神の自慢話から、人間の愚行と狂気を浮かび上がらせた内容の、エラスムスの著書。

今回の引用は中公文庫の沓掛良彦訳・ラテン語原典訳から。

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