暇が虎を殺そうとした
妙に暑い日だった。ここのところ気温の高低が激しく、体調管理に気が抜けない。アーサーは家路を辿りながらネクタイを緩める。途中、コンビニの前でたむろする若者たちを見かけた。居場所がないのだろうか。そう思いつつも同情や軽蔑にまで至らないのがアーサーである。感情が希薄なところがそもそもあった。今、最も気に掛ける相手はと問われたら数秒の後、ホームズか一色と答えるかもしれない。同僚と猫を秤にかけることに躊躇がない。
ざら、とした違和感を覚えたのは、自宅であるマンション近くまで来た時だった。
抜き身の刀を引っさげた少年が道の真ん中、まるで落とし物のように立っている。寄る辺ない在り様に、アーサーの警戒心が微弱ながら薄れる。
「架橋さだめ君。だったね」
揺らぐ視線はアーサーを捉えた。深い漆黒の双眸。
「三つ巴にはならないと思っていたが」
「白夕の指示だ。俺は知らない」
「君は傀儡に収まる器ではないだろうに」
さだめが目を眇めた。
「日本語をよく知っている。正しいよ、あんたの言い分は。暇だったから俺が提案した。だから、正確には白夕の了承を得た、だ」
「暇は虎を殺すか」
アーサーは金糸の束を取り出す。しゅるしゅるとそれは目にも止まらぬ速さで伸びて、さだめに迫る。さだめはそれを刃で弾いた。
頭上には赤い月。ほぼ満ちている。
「裏闇通り」
黒い鉄柱が、今度はアーサーに向かう。アーサーは跳躍してその一つに飛び乗ると、疾駆した。それこそ刀剣の間合いに入る。金糸を撚り固め、鋭利に仕立てさだめの胸部を目指す。体術に秀でるのはアーサーだけではない。さだめも俊敏に後退してこれをかわした。刀と糸束が打ち合い音高く歌う。数撃、歌は鳴り響いた。その間、アーサーはこの戦闘を俯瞰し、頭の片隅で愛猫であるホームズのことを考えていた。早く帰ってやらなければ。ホームズは賢いが、寂しさを感じない訳ではない。
互いに間合いを取った時、さだめが口を開いた。物憂げな表情が彼には不似合いだ。
「知らないんだな」
「何を」
「音ノ瀬こと」
「彼女が?」
「引き籠る理由」
「君は知っているのか」
飛行機がはるか上空を横切る。さだめは頷く。アーサーは知りたいという欲求に駆られ、次にさだめが言葉を発するのを心待ちにしたが、さだめは口を閉ざした。焦れて、急かす。
「そこまで言って出し惜しみかい」
「流産したからだ」
その発言が、最初、アーサーの中で形にならなかった。ようやく頭がそれを理解した時、さだめが間近に迫っていた。
黒い呪符の飛来は、さだめのみならずアーサーの予測をも超えていた。さだめが勘に基づいてこれを避ける。
「雅山さん……」
「こんばんはあ。じめった夜だねえ」
通称・死神と呼ばれる男がなぜ今、蛇の目傘から隠し刃を抜き放ってここにいるのか。
二人の心の声が聴こえたように雅山が肩を竦める。
「片桐社長のお言いつけで。次にアーサー君たちが戦闘を開始しそうなら援護しろと」
それだけの情報でこの場面に遭遇するとは、予感の的中率が高過ぎるだろうとアーサーは思った。しかしこれで二対一、戦局が有利になったとは言い難い。なぜなら、ゆらりと綻ぶ酔芙蓉の気配を感じたからだ。雅山も同じだったらしく、さだめから離れ呪符を乱発する。
そのことごとく、斬り落とした白夕は憂い顔だった。




