傷ついた鳥
赤い切子細工を手に、景が音ノ瀬本家を訪れたのは、真っ赤な夕日の落ちる黄昏時だった。日を背負い、影に覆われた彼は、どこかしら異界からの使者のようだった。玄関の戸を開けた摩耶は、僅かに驚いたが、それ以上の動揺は見せずに久し振りの対面を果たした。
「景君。戻って来たの?」
戻って来てくれたのかと問いたかった。自分の為に。そして景にとって、それはあながち的外れではなかった。彼は、赤い切子細工を摩耶の眼前に示した。
「片桐社長の命です。生殺与奪、俺が握っています」
「……とにかく、上がって」
「摩耶さん、この家を出て俺と来てください。俺は、貴方の為なら何でも出来る」
赤い切子細工を持ち出したのは、それを証明したかったからかと摩耶は了解した。景の顔立ちは、何かを一心に思い詰めている人間のそれだった。危うい、と摩耶は思う。
「私はこの家を動かない。特に今は、動けないわ。ことさんが、大変なの」
すると景の形相が一変した。
「またあの女ですか。あんな無価値な女に、いつまで拘るんですか、摩耶さん!」
「訂正しなさい、景君」
眦を釣り上げた摩耶に、景は尚一層、いきり立つ。
「どうして。音ノ瀬ことがいなければ、貴方は俺だけを見ていてくれたんだ。あの女さえ、いなければ!」
景の声の大きさに、何事かと芳江たちも玄関まで出て来た。切子細工を見て、景を見る。大方の事情を呑み込んだ。芳江の心をよぎったのは、危機感だった。景は、摩耶への執着に憑りつかれている。常軌を逸した人間は何をするか解らない。こんな時、ことであればどう行動するだろう。思案していると、楓がすっと前に出た。景のシャツの袖を掴む。
「おうちに、入ってください。お風呂に入って、あったかいもの食べて」
「……放せ」
「放しません。貴方が間違えたら、ことさんが悲しむから」
「俺は何も間違えない」
次に摩耶が取った行動は、誰にも予測がつかないものだった。彼女は、景をふわりと抱擁したのだ。体温と体温が繋がる。心の浮橋を渡る。
「言っていなかったけれど。そんなことしなくても、私は貴方が好きよ、景君。だからお願い、今はこの家に入って。私の傍にいて、私を守って頂戴」
私の心を、と摩耶は続けた。景の身体から力が抜ける。芳江が、彼の後ろに回り込んで、背中を押した。さあさあ、と柔らかく。傷ついた鳥を、たなごころに包む心境だった。景をよく見れば衣服が薄汚れ、髪もぼさぼさだった。早く、彼を保護する必要があると感じたのは、芳江だけではなかったのだ。




