あなたが泣いていた
あの人が泣いていたから。
風に乗ったその泣き声は、私の耳にこびりついた。だから私は、その人のもとまで飛んだ。
前に隼太たちが暮らしていたマンションだった。流浪の必要をもう感じずに戻ったのだろう。そのベランダに、うずくまる彼の隣に、私はふわりと舞い降りた。
大海が涙に濡れた顔を上げる。春雨が優しい音を奏でていた。
「磨理……」
「大海。ごめんなさい」
「磨理、磨理」
しがみつく大海の肩を、私は落ち着くように撫でる。
「もう傍を離れない。ずっと貴方と一緒にいるわ」
「本当に?」
「本当よ」
一層、強く体温を押しつけられる。ベランダの戸が開いて、隼太が顔を出した。驚いている様子はない。こうなることを予期していたのだろうか。その視線は、憐れむような、詰るような、複雑な色合いだ。
「……只今、帰りました」
「愚かな女だ」
彼ならではのコトノハに、私は何だか可笑しくなる。大海がこれ以上濡れないように、彼と共に室内に入った。隼太が差し出したタオルで、大海と自分の髪や身体を拭く。湿っぽい匂いがこのリビングにまで入り込んでいる。
「お別れは済ませたのか」
「ええ」
大海が、私と共に座ったソファーの上ですこん、と眠りに落ちた。
「ここしばらく、眠っていなかった」
隼太が説明するように語る。私は大海の髪を縛るゴムを解き、その髪の毛を手櫛で梳いた。気持ち良いようで、寝顔に仄かな笑みが浮かぶ。隼太は姿を消して、また戻って来た。
「風呂の用意をした。沸いたら入れ」
「ありがとうございます」
隼太なりの気遣いだ。大海の頭を膝に乗せ、私はきっと穏やかな顔をしているのだろう。切り込むように隼太が問う。
「お前はそれで良かったのか」
「十二分に、幸せでした。もう、どこにいても、あの日々の記憶がある限り、きっと私は、ずっと幸せなままでしょう」
隼太はそれ以上、何も言わない。雨音が大きく響く。風呂が沸いたので、私は隼太の言葉に甘えて、大海を彼に預けて浴室に向かった。慣れない家で裸になるには、些かの勇気が要る。だが、これからは、ここが私の家になるのだ。私は、着ていた着物を一枚一枚、脱いでいった。身一つになり、浴室に足を踏み入れる。風呂の蓋を開けると、もうもうと湯気が上がった。洗面器にお湯を入れ、身体と髪を洗う。浴槽に身を沈めて、私は声を殺して泣いた。後悔はしていない。だが、愛しい人たちが悲しむだろうと思うと、私こそが悲しくなるのだった。




