悲しみの貴人はコロッセオに佇む
聖の記憶は未だ戻らない。時折、彼は何とも言えない瞳で私を見つめる。もうどこにもいない、小さな彼のお姫様を探していると解っていても、今の私をも愛してくれていると解っていても、私の胸にはささやかな痛みが走る。記憶を失くして以来、聖は私に触れようとしない。私の夫であると頭では理解するが、音ノ瀬本家の当主と言う、彼の主筋の人間を一人の女性として扱ったという事実は、彼の中に懊悩を生じさせていた。
私は悲しかった。元は私の蒔いた種だ。悄然として、何となく気づけばホテルの中庭に足を向ける自分がいた。青い風が吹く。私が中庭に出ると、聖も距離を置いてついて来る。梅を愛でる為ではなく、私を守護する為だ。副つ家の、鬼兎と言う役割を果たすことは、聖の使命だった。もう長いことそのように歪だったものを、夫婦と言う形を取ることで打ち崩せたと思ったのに。
「私のウサギさん」
呼んでみる。
すぐに聖は飛んで来る。
いつもの紅玉の瞳で。いつもの雪の庇持つ瞳で。
伺うように私を見る。
〝主命〟を待つその双眸が寂しい。
だから私は聖の胸に飛び込んだ。聖の身体が硬直しようと無視する。容赦しないから。だって私は聖を愛している。おずおずとした気配で、私の背に回される腕。壊れ物を扱うように。莫迦。もっと強くて良いのに。
「こと様。ふるさとにお出でになりませんか。音ノ瀬隼太たちも迎えます」
記憶のある聖なら、決してそんなことは言わないだろう。ふるさとに、私と共に暮らしたいと言う望みの形だけは変わらないらしい。私が顔を上げると、聖の胸に下がるネクタイピンの、サファイアの輝きが視界に入る。何か気の利いたことを言わなければ。何か。
その時、聖の腕にぐ、と力が入った。私を背に回す。足音が二つ。
「その願いは、延期してもらおうか」
紅梅、白梅の香る中、金髪のアーサーと、一色が佇んでいた。彼らの纏う空気は、場所の作用もあってか、どこか厳かで一枚の絵のようだ。聖の背中から闘志を感じる。
「君たちが、かたたとらコーポレーションか」
「そうだ。……?」
答えたアーサーの顔が、怪訝の念を浮かべる。絡まる視線と視線は、それぞれ鮮やかな赤と緑だが、どこか意思疎通を不可能としている。聖が記憶を失くしているからだ。アーサーたちはその違和感をすぐに感じ取ったらしいが、その一瞬後には臨戦態勢に入った。私は聖の背中からするりと抜け出した。




