中庭にて
目覚めた聖は飛び起きた。
反射的に横のベッドを見る。澄ました無人のベッド。昨日の出来事を思い出す。美しく成長したことの、必死の話を。彼女の声音に嘘はなかった。信じられないが、自分は時を経て、想う少女の成長した女性と結婚することが出来たのだ。それはまるで禁域に踏み込んだようで、空恐ろしくさえある。依然として戻らない、空白の記憶が問題だった。
部屋に戻ると、聖が寝ていたベッドはもぬけの殻で、洗面所からバシャバシャと水音が聴こえる。少しして、聖が顔を見せた。私を認めると滲むような微笑を浮かべる。
「こと様。おはようございます」
「おはようございます、聖さん。よく眠れましたか?」
「はい」
「記憶のほうは……」
「そちらはまだです」
けれど、と聖が言葉を継いだ。
「僕にとっては、こと様が傍にいらしてくださることこそが、肝要ですから」
朝食はレストランで摂った。
大海と隼太、恭司の姿もある。大海は聖を見て、あからさまに顔をしかめた。恭司が私たちのテーブルにトレイを持って来る。瞳には懸念。
「記憶がないと聴いたが」
「君は誰だ」
「……本当らしいな。俺は佐々木恭司。音ノ瀬ことの、養女の、ええと、許嫁だ」
楓のことも恭司のことも、昨夜の内に話してある。しかし聴くと見るとでは違うようだ。赤い双眸は食い入るように和製天使を見つめている。
「恭司君、か。強いんだね」
コトノハの強さ、身ごなしからの判断だろう。聖は隼太たちのほうも気にしていたが、彼らがこちらに足を向けることはなかった。朝食後、私はホテルの中庭を散策した。雨に洗われた白梅と紅梅が露含み咲き匂う。雅趣に富む光景だ。私は一枝に手を伸べて、儚い花弁に触れた。露が指先を濡らす。陽光が降りかかる中庭にプリズムが躍っている。聖と一緒に観たいと思った。彼は今、部屋で記憶を取り戻そうと格闘している。聖は私を私と認識してくれた。それが何より嬉しい。彼もまた、私と添えたことを得難い僥倖と感じてくれているようなので、尚更だ。密やかな足音に、私は目を向ける。大海がいた。
「花が好きなんだね。やっぱり磨理だ」
「いいえ、私は違います」
「どうして嘘を吐くの」
「嘘ではありません」
私は警戒して距離を取ったが、大海は構わず近づいて来る。ジャリ、と地面の音。疾風のように割り込む影があった。
「この女は磨理さんじゃない」
「恭司君。君まで、僕に嘘を言うのかい」
恭司は真剣で、そして鎮痛な面持ちをしている。
「嘘じゃない……。磨理さんは、病気で亡くなった。もう、この世のどこにもいないんだ。聞き分けてくれ。大海さん」
恭司は泣いていた。
彼のコトノハから、楓を喪った可能性を思う時の感情が雪崩れ込んで来る。世界中から愛する人が消えたと知らされる時、人はどれだけの絶望に襲われるのか。
大海は赤ん坊のように澄んだ目をしていた。意外に長い睫毛が上に下に動き、それからかぶりを振ると、ぶつぶつ、何かを言いながら立ち去って行った。




