昔のように
ことが聖を呼ぶ声は、二階の廊下まで届いた。
音ノ瀬家当主に相応しい朗々たる声、と言うには、切羽詰まったものを感じさせる声音だ。
(……目覚めたか、音ノ瀬こと)
狂った父に供した夢は、本当に一睡だったらしい。
大海は今頃、嘆いていよう。帰らぬ母の名を呼びながら。
聖を窺うと、静かにも凛然としていた彼の赤い双眸が、夢見るように和んでいた。
隼太を見て、柔らかに微笑する。
窓から射し込む陽に包まれた聖の様子が、幸福に微睡むようであるのを、隼太は訝しんだ。光を受けて輝く艶めいた白髪を眩しいくらいに思う自分に、隼太は内心舌打ちした。
――――音ノ瀬の、神聖など。
睨む隼太の眼光をいなして、聖が確認と宣言を兼ねた言葉を紡ぐ。
「一階の舞踏会は終わったようだね」
「何をにやついている」
「昔を思い出しただけだ。さあ、君も行くだろう?こと様のもとへ」
聖は隼太の返答を待たず、身体の向きを変え、さっさと階段に向かう。
一見、無防備でいて、隙の無い背中を尚も睨みながら、隼太も同方向に進む。コートの裂け目を一度だけ、指で撫でた。
隼太が奇妙な顔をするのも道理だ、と聖は思った。
ことに名指しで呼ばれ、彼は回想したのだ。
主家の小さな姫君と、隠れん坊して遊んだ頃の、懐かしい記憶を。
ことが隠れる時、聖は程良い時間の長さを見計らって、彼女を見つけた。
縁側の下、桜の樹の上、竹林の中でも、見失わずに。
年齢差や、風の知らせを鑑みれば不思議でもない。
逆に、ことが鬼になった時は、これも程良い頃合いの隠れ場所に潜んで、わざと見つかるように仕向けた。
それでも、どうしても聖の姿が見当たらない時、ことはいつも大声で叫んだのだ。
〝ウサギさん!どこですか!!〟
そうすると聖はすぐに降参して、ことの前に歩み出る。
ことは駆け寄り飛びついた。
隠れん坊の鬼となった姫君が、鬼兎と称される自分を求め、声を上げてくれる。
それがどれだけ嬉しかったか、ことは知らない。
五年離れても。
嗜好を憶えていてくれ、〝私のウサギさん〟と呼んでくれた。
それがどれだけ嬉しかったか。
一階の階段横。開いた扉の前で、少年を肩に担ぎ上げた秀一郎と鉢合わせした。
両者、目を見張り、相手の無事に安堵する。
秀一郎が聖の変化に驚いたのはほんの一瞬だった。
室内にちらりと視線を遣り、聖に先を譲る。
後ろから来た隼太の前には半歩出て、無言で牽制した。
「こと様」
楓と大海に縋られたことが、聖を見る。
頬には涙。
ちぐはぐな親子のような一塊より、聖はそちらのほうに目を惹きつけられた。
両親が帰らぬと嘆いて以来、初めての、ことの泣き顔。
私は楓と大海を抱え、身動き出来なかった。
悲しくて遣る瀬無くて。
呼んだら、聖が来た。
来てくれた。昔のように。
当たり前のように、昔のように。
私は昔のように我が儘姫だと呆れられているだろうか。
聖の顔は少し茫然として見える。
「聖さん」
「……はい」
「私は」
「はい」
「務めを果たさねばなりません」
「……はい」
私はここで一端、両目を閉じて、深く息を吸った。
目を開けると、聖と、楓と俊介の視線を感じた。
入口に立つ秀一郎と、隼太の視線も。大海は私に頭を押しつけ、背を丸めたままだ。
また聖に視線を戻す。
「コトノハを、洩らさず聴きたいのです。こぼすことなく、彼らのコトノハを……」
赤い瞳が私を促す。
「聴き逃したくないのです。間違えたくない。昔のように。隼太さんと話をさせてください」




