この世で一番愚かなのはだあれ
悪天候の中、車に乗り込み音ノ瀬家の様子を窺っていた一色典弘は、飛び出す恭司の姿を認めた。後を追えば、いずれ音ノ瀬隼太に行き着く。そこには音ノ瀬こともいるのだろう。つまりは、この時点で一色に、恭司を追わないと言う選択肢はなかった。素早く車から出て、焦げ茶色のダウンジャケットを見失わないように進む。視界は悪く、一色の眼鏡にも雪が付着しては解けた。恭司は脚が速い。しかも選ぶ道は狭く、足場が悪い。まるで野良猫のような身軽さだと一色は思った。全てが暗色に沈み、雪さえも薄ら暗い世界で、焦げ茶色を見失わないようにするのは容易ではない。一色の呼吸が荒くなり、四辻に出たところで、恭司がピタリと止まる。余りに急な停止だった。恭司が振り返り、一色と目が合う。一色は自分のミスを悟った。恭司は一色の尾行に気づいていたのだ。いつからかは解らないが、適度に開けた四辻は、恭司が選んだ戦闘場所だと知れる。
「――――かたたとらか」
一色は、最早、隠し立ては無駄と悟った。
「ああ。一色典弘だ」
「狙いはネクタイピンだな」
「話が早くて助かる。音ノ瀬ことの場所を教えてもらえれば、更に助かるんだが」
「誰が楓の泣くような真似をするかよ」
「鏡よ鏡」
一色の手に、丸い鏡が現われる。戦闘は不可避と最初から割り切っての会話だった。恭司は、不意に出現した鏡を警戒して、隠刀を顕現、破壊しようとしたが遅かった。鏡の中に吸い込まれる。
「素直に話してくれる気になったら、出してあげるよ」
雪止まぬ夜に、一色の声だけが不思議と明瞭に響く。それは鏡に吸い込まれた恭司にも同様だった。
潮の匂いがする。
今よりもずっと若い恭司が、海を眺めている。ぽつねんとしたその姿は、侘しい。どこにも居場所がなかった。誰にも気を許さなかった。そんな昔を恭司は思い出す。この鏡の絡繰りは、精神攻撃か。大海の使う技にも似ている。心弱ければ喰われる。邪道の術だ。恭司は醒めた思考でそう判断する。生憎と、一色が望むような生易しいメンタルは持ち合わせていない。過去は過去と割り切れる強さが恭司にはあった。
場面が転換して、危険な組織の構成員として生きる自分を見ても、恭司の心にさしたる動揺はなかった。その内、重傷を負って隼太と出逢うまで、この上映会は続くのだろうか。まだるっこしい。いっそ刀を闇雲に振り回せば、鏡から脱却出来るだろうか。
四辻の一角、民家の石塀にもたれて、一色は恭司の様子を観察していた。吐息を一つ。隼太といい、恭司といい、妙に精神が頑健で困る。この分だと、遠からず恭司は鏡から出て来るだろう。吐息がまた一つ。白く凍えて横に飛ぶ。そもそもがこんな悪天候に、時間外労働をしている時点で一色には面白くない状況だった。報酬がはずめば良いと言う話ではない。彼は自分の時間を自分の為だけに使うことを好み、他に侵食されることを嫌っていた。アーサーが聴けば宮仕えの苦労だと諭しただろう。あれもまた、自分の時間を守りたがる男であると一色は知っている。奇しくも、宮仕えに向かないという気性において、アーサーと一色はよく似ていた。だが片桐の下で動くのは、それを仕事と割り切るからだ。大人は種々様々な割り切りをして生きる。
そんなことを思い巡らせていたので、反応が一瞬、遅れた。黒い革手袋の持つ鏡から突き出た刃の切っ先は、確実に一色の喉元に据えられていた。




