彼らのコトノハ
薔薇の盛る中に凝固した、明るいオレンジ色のマリンパーカー。
〝君はもう戦えない〟
秀一郎のコトノハは、緊縛の術の総仕上げだった。
自他に効かせるプラシーボ。
それは十分に作用した手応えがあるのだが、少年の顔は蒼ざめてはいるものの、まだ戦意を喪失していない。秀一郎を恐れながらも屈服しない意思が窺える。
(大したものだ)
だから秀一郎も、ジャケットを脱いで、暑気のような陽射しと戦闘で汗を掻いた身体に涼風を感じることや、負った手傷の確認は出来ない。
隙を見せては危ういと判断したからだ。
油断と慢心は戦闘の大敵である。
慎重に、少年の細い左肩に置いた秀一郎の腕には無数の傷がある。
瞬時、それに視線を走らせた少年の顔に愉悦の色が浮かんだ。
一矢は報いてやったぞ、と言わんばかりの。
それから、彼の身体は撒き散らかされた薔薇の花びらに受け止められた。
意識はあるが、身体は秀一郎の支配下にあるのだ。
むせる芳香を放つ真紅、ピンク、純白、黄と瑞々しい緑に少年が伏した光景は、金色の額で囲めば油彩画として飾れそうだ。
秀一郎は油彩画から明るいオレンジ色を抜き取る。
華奢な少年の体躯を、肩に担ぎ上げた。その拍子に、また身体のあちらこちらの傷が痛んだ。
「……花屋敷に戻ろう」
痛みを意識の外に置き、宣言通りに秀一郎が屋敷に向かって歩き出す。
置いて行けよ、くそが、と、少年から声無き罵声が聴こえた気がする。
声が無くても、身体から発散される感情が伝わる。密着していれば尚のこと。
「君の年齢は、外見相応ではないね」
構わず、歩みも止めず推測したことを質すと、次は僅かに驚きの感情が少年から感じられた。
顔立ちと、表情に宿る色の落差に感じた違和感の正体はそれだ。
少年は、正しくは少年ではない。
(コトノハによる年齢操作か。……禁忌だが……)
禁忌に容易く触れるのが隼太であり、隼人であったのだろう。
ことを、知らぬ女性の名前で呼んだ青年も、果たして見かけ通りの年齢かどうか――――。
秀一郎に事情を悟られることを警戒し、口だけではなく気配すら噤んでしまった、外見だけ少年の男は、重い。
花屋敷までもう数歩しかないのだが、秀一郎の疲労は濃かった。
「僕は自己紹介を済ませた。君にもあとでしてもらうよ。立場は、対等なものであって然るべきだ」
今度はオレンジ色のパーカーから無言の侮蔑を感じ取る。
(音ノ瀬本家の狗が何を言う、ってところかな)
「君は信じないかもしれないが」
自分の背で、歩みに合わせて揺れるパーカーのフードを一瞥してから秀一郎は続ける。
発散される不信の空気に微苦笑する思いで。
「僕も聖君もことさんも、対等という観念には敏感なんだよ。平等、対等。それらから隔てられて生きてきた人間だからこそ、という、逆説的な経緯において」
庭に面した応接間の硝子戸はぴたりと閉め切られているようだ。
硝子の向こうに、男女の影が見える。
秀一郎の頬が力む。
(ことさん?)
しかし、どこか様子がおかしい。
秀一郎は玄関側に足を向けた。上空を飛ぶ烏が、まるでこちらを観察しているかのようだ。
(僕たちには音ノ瀬隼人も音ノ瀬隼太も理解出来ない。……まだ。けれど彼らもまた、僕らを理解し切れてはいない。そもそもずっと、相容れない関係だった僕らだ)
ことであれば。
彼らのコトノハを聴こうとするだろう。
目で見て耳を傾け思考を積む。
秀一郎は玄関の扉の、真鍮の把手を掴む。
この扉を、把手を見たのは、つい先刻の筈なのに。
ことが倒れ、聖は消えた。
現状がどうなっているか、秀一郎には解らないが。
(そのまま引き下がる君じゃないだろう、聖君)
やられ通しでは、ことの〝特別枠〟の名が廃る。
秀一郎はそう思いながら、屋内に踏み込んだ。
漆喰の壁に埋め込まれた大きな鏡が、秀一郎らの姿を映し出した。
「聖さん!どこですか!!」
ことの大音声が耳に飛び込んだのは、その時だった。




