時の系譜
風を愛していた。
草木を揺らし、葉擦れを生み、頬をなぜる。
独りではないと教えられているようで、独りでも生きていられた。
楓
立ち上がって駆け寄ろうとしたら腕を掴まれた。
音ノ瀬大海に。
「磨理、」
「私は磨理さんではありません。行かせてください」
「逝かせない」
「――――大海さん。磨理さんは、もう」
「逝かせない。駄目だ、磨理。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ」
駄目なんだと呻いて、大海は私の胸に頭を押しつけた。両腕を掴み。
磨理の記憶より伸びた髪がすぐ目の前にある。
磨理は大海が束ねた髪を見たことが無い。
見る前に故人となった。
逝ってしまったのだと。
もう戻らないのだと。
何万回唱えても、大海には届くまい。
処方が至難であるコトノハは山とあるが、喪って世に絶望した人に掛けるコトノハは、その最たるものの一つだ。
ぶかぶかの服を着た楓が応接間に踏み込み、走り、私に手を伸ばす。
その一対のひとひらから、先に伸びる生の世界が見える。
生きる熱と、可能性が。
片や私の懐には、死の冷却に閉ざされた虚無が在る。
先に伸びることのない世界で泣いている。
――――この両極端は何だ。
人の世が、私のあちらとこちらに凝縮して展開している。
光と闇が。
「ことさん」
楓の瞳に怯えが見える。小さなひとひらは私のズボンの裾を掴んでいる。
聡い子だから、大海の嘆きを察し、彼に遠慮しているのだ。
聡い子だから、彼に同調しそうになる私を心配しているのだ。
大海の丸めた背に両手を添えているから、私は私の涙を拭うことが出来ない。
「楓さん」
それでも私は唇を動かした。
「迎えに来ました。帰りましょう。遅れて……辛い思いをさせましたね」
濡れている楓の頬に、新しい涙が流れる。
胸が痛い。
しかし誰の為の痛みなのかは判然としない。
楓なのか、大海なのか、磨理なのか、私自身なのか、或いは隼太なのか。
呆然と立ち、こちらを見ている俊介がいる。
彼もまた、光に在る者。
佳きコトノハの世界の住人。
その無事であることに安堵すると同時に、錐のような寂寞に私の胸は突かれた。
俊介の眩しさは好ましくて、そして傷にひりひりと沁みる。
聖はどこ?
衣服に執着する男には見えなかった、と聖は思った。
階下に楓らを逃がして対峙する隼太の目は据わっている。
雨に打たれた紫陽花を連想させるコートは、確かに美しい色合いだが。
年季が入って随分古くも見える。
隼太の怒りに、却って聖は冷静になった。
捨てられない愛着心には人間味がある。
何を失っても平然としているより、〝こちら側〟に呼び戻せる可能性がある。
紫陽花の花言葉は移り気だったか、と記憶を探った。
移ろえば良いのだ、人なのだから。
移ろい惑い、答えを見つければ良い。
「君は若い」
「愚弄か。挑発か?」
ぴぴ、と、透明の細かい礫が聖の身を数箇所、掠めた。
しかし怒気にゆだり、冷静さを欠く幼さは持たないようだ。
隼太の双眼は据わっているが、短気に走らず自分をコントロールする克己心を備えている。
道を誤らなければ有望であろう彼の前途を、聖は惜しむ。
「斬」
「散」
「裂」
「解。効かないよ。今日はコトノハ日和だしね」
伸びた白髪をそよがせて聖が笑う。
隼太が直接攻撃に転じないのは、聖の実力を見積もっているからだ。
迂闊に仕掛ければ危ういと察する、つまりは隼太にもそれだけの格闘の心得があるのだ。
「……惜しむらくは君が、春も花も見ずに育ってしまったことだ」
「悠長な寝言だな」
「本音だよ。僕は自己中心的で危険思想の持ち主だ。君程の男が、こと様の助力となるなら、音ノ瀬の膿も掻き出せるのではないかと夢見るくらいにはね」
呼気を吐いて、短く隼太が失笑した。
「お前の目、赤い硝子ではないようだ。しかしな、鬼兎。歴史に積まれた膿は、一個人の手に負える代物ではないぞ」
「うん。君の言う通りだ。負の遺産は…。時を掛け、緩々と解くしかないんだろう。春に雪が融けるまでを耐え忍び、咲く花を愛でるように」
「……貴様のコトノハは不快だ」
「君が今まで、そうしたものを一切、拒絶してきたからだろう。音ノ瀬隼太。それは、音ノ瀬隼人の亡霊による支配か?母の死による打撃か?父の狂気による浸食。それとも、その全てか?――――――――なぜ、君の目は硝子玉なんだ――――――――」
慈しみも憐みも、隼太の不快を増すばかりだと解ってはいた。
だが、聖は眉をひそめずにはいられなかった。
命が何なのかを知りたかったと、動物の遺骸の真ん中で呟いた少年。
「否応なく巡るものが命だ。無慈悲に恵み、降り注ぐ陽が、君の知りたかった答えだ」
「俺に情を施そうとするな」
「嫌なら撥ね退ければ良い。敢然として。けれどこと様も君に同じようにするだろう。それ以外をあの方に期待するのは、無意味だ」
「まだ判るまい」
「判るよ。僕はずっと、こと様を見てきたから」
恵まれ降り注がれたから。




