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コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
乱刃血縁編 第五章
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割れたタンブラー

 人が寄り集まると、余白、或いは間隙と呼べるものが生まれる。だから、かささぎが花屋敷から抜け出るのも、そう難しいことではなかった。屋敷から出て、数歩、歩いたところで振り返る。ことは今頃、庭にいるだろう。

「行ってしまって良いのですか」

 不意に響いた声にぎょっとする。

 濃いグレーのロングコートを纏う劉鳴が立っていた。普段と変わらない涼しい面だ。陽光が彼の白髪に降り注ぎ、どこかこの世ならざる印象を与える。

「良いんだ。姉さんを、お願いします」

「そう言う前に、姉の涙の数を数えなさい」

「布帛の仇を取らなくちゃならない」

 赤い双眸が眇められる。

「どうしてもですか」

「どうしても」

「では僕も同行しましょう」

「え?」

 驚くかささぎを置いて、劉鳴がさっさと歩き出す。

「どうして貴方が」

「ことさんに君を守れと頼まれました。約束を守らなくてはなりません」

「――――俺を止めないの?」

「止めたら止まるのですか」

「…………」

「早くなさい。直に気づかれますよ。そうなればことさんは、半狂乱で君を追い、捜すでしょう」

 風が吹いて、劉鳴の三つ編みに編み込んでいない箇所の白髪が靡く。かささぎはぼんやりとそれを眺めた。


 私は花屋敷の中を駆け回った。そして、中にかささぎがいないと判るや、すぐに外に出た。走って走って。それでもかささぎは見つからない。葉擦れと鳥の声だけが聴こえる。つまり、風は私に知らせをもたらさない。

「こと様」

 聖の声に顔を上げる。

「劉鳴殿の姿も見当たりません。恐らく、かささぎ君と一緒でしょう」

「……捜さないと」

「山狩りは無理です。劉鳴殿がいれば、そうそう間違いは起きません」

 

 私が今より若い頃、ずっと大事にしていたタンブラーがあった。フランスのブランド物で、白く、凸凹したどこか古風なデザインがとても気に入っていた。割ったらとても悲しいことは解っていたので、私はそれを慎重に大切に取り扱っていた。けれど、それはある日、私のちょっとした不注意で割れてしまった。一点物で、もう製造中止になった品である。私はショックを受けてしばらく落ち込んだ。

 いつか失われると解っていても、いざその時が来ると人は痛手を被るのだ。


 かささぎは行ってしまった。私を置いて。

 もう戻らない。

 無様にもふらついた私の身体を、聖がしっかりと支える。微かに庭の薔薇の匂いが鼻腔に届くが、それは今の私の何の慰めにもならない。

「捜さないと」

 私は莫迦の一つ覚えで繰り返す。

「一旦、家に戻りましょう。それから対策を講じるのです」

 聖は噛んで含めるように私に言い聞かせる。私は頷いた。得心したからではなく、惰性の動きだった。岡田たちが何事かと追って来た。何も言えない私に代わり、聖が状況を説明する。

 駄目だ。

 どうして。

 嫌だ。

 何の生産性もない言葉ばかりが私の脳内を駆け巡る。聖が私の腕を寄り添うように掴んでいなければ、私は茂みを掻き分けてでも一人でかささぎを捜しただろう。悲しみと混乱の泉が胸底から滾々と湧いた。



挿絵(By みてみん)






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