割れたタンブラー
人が寄り集まると、余白、或いは間隙と呼べるものが生まれる。だから、かささぎが花屋敷から抜け出るのも、そう難しいことではなかった。屋敷から出て、数歩、歩いたところで振り返る。ことは今頃、庭にいるだろう。
「行ってしまって良いのですか」
不意に響いた声にぎょっとする。
濃いグレーのロングコートを纏う劉鳴が立っていた。普段と変わらない涼しい面だ。陽光が彼の白髪に降り注ぎ、どこかこの世ならざる印象を与える。
「良いんだ。姉さんを、お願いします」
「そう言う前に、姉の涙の数を数えなさい」
「布帛の仇を取らなくちゃならない」
赤い双眸が眇められる。
「どうしてもですか」
「どうしても」
「では僕も同行しましょう」
「え?」
驚くかささぎを置いて、劉鳴がさっさと歩き出す。
「どうして貴方が」
「ことさんに君を守れと頼まれました。約束を守らなくてはなりません」
「――――俺を止めないの?」
「止めたら止まるのですか」
「…………」
「早くなさい。直に気づかれますよ。そうなればことさんは、半狂乱で君を追い、捜すでしょう」
風が吹いて、劉鳴の三つ編みに編み込んでいない箇所の白髪が靡く。かささぎはぼんやりとそれを眺めた。
私は花屋敷の中を駆け回った。そして、中にかささぎがいないと判るや、すぐに外に出た。走って走って。それでもかささぎは見つからない。葉擦れと鳥の声だけが聴こえる。つまり、風は私に知らせをもたらさない。
「こと様」
聖の声に顔を上げる。
「劉鳴殿の姿も見当たりません。恐らく、かささぎ君と一緒でしょう」
「……捜さないと」
「山狩りは無理です。劉鳴殿がいれば、そうそう間違いは起きません」
私が今より若い頃、ずっと大事にしていたタンブラーがあった。フランスのブランド物で、白く、凸凹したどこか古風なデザインがとても気に入っていた。割ったらとても悲しいことは解っていたので、私はそれを慎重に大切に取り扱っていた。けれど、それはある日、私のちょっとした不注意で割れてしまった。一点物で、もう製造中止になった品である。私はショックを受けてしばらく落ち込んだ。
いつか失われると解っていても、いざその時が来ると人は痛手を被るのだ。
かささぎは行ってしまった。私を置いて。
もう戻らない。
無様にもふらついた私の身体を、聖がしっかりと支える。微かに庭の薔薇の匂いが鼻腔に届くが、それは今の私の何の慰めにもならない。
「捜さないと」
私は莫迦の一つ覚えで繰り返す。
「一旦、家に戻りましょう。それから対策を講じるのです」
聖は噛んで含めるように私に言い聞かせる。私は頷いた。得心したからではなく、惰性の動きだった。岡田たちが何事かと追って来た。何も言えない私に代わり、聖が状況を説明する。
駄目だ。
どうして。
嫌だ。
何の生産性もない言葉ばかりが私の脳内を駆け巡る。聖が私の腕を寄り添うように掴んでいなければ、私は茂みを掻き分けてでも一人でかささぎを捜しただろう。悲しみと混乱の泉が胸底から滾々と湧いた。




