かささぎ去る時音立てず
楓を学校に送り出すと、ほっとする思いと、大丈夫だろうかという懸念が同時に湧く。登下校時は、念の為と恭司がついてくれる。二人してうちの敷居の外に出る姿を見て、彼らはこのようにして、人生も寄り添って行くのだと思う。今日は少しばかり空が低く、卵色の雲が棚引いている。家を囲う犬槙の緑が目に瑞々しい。屋内に入り、洗濯物を干して炬燵に落ち着くと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を開いた。昔、読んだことがあるが、かささぎがこの本を始めとしたロシア文学からコトノハ処方を巧みにすると知り、再読する気持ちになった。あらすじは女性を巡り争っていた父と息子がいて、父が殺されたことにより息子に殺人疑惑が掛かり、裁判が行われるといったものだ。彼らの苗字がカラマーゾフ。容疑者となったのは長男のドミートリイ。次男、三男もいて、それぞれ性格は全く異なる。名著との誉れ高い本だが、あらすじの肝要な点に辿り着くまでがとにかく長い。上巻・中巻・下巻と分厚く並ぶ内の、中巻の途中を過ぎてようやく父親殺害が明らかになり、長男の元に警察らが駆けつけるのだ。
最初の掴みが肝心らしい、今のウェブ小説に投稿したら、恐らく閑古鳥が鳴くだろう。はまれば面白いのだが……。
読書の供はルイボスティーとお歳暮で貰ったクッキーである。クッキーはバターサンド。ティーカップはドイツブランドで白地に青い植物模様が躍る。緑茶をよく飲む私だが、今日は気分を盛り上げる為、このようにした。因みに撫子と芳江はウェディングプランナーの所に足を運び、摩耶と景はデートらしい。結構なことだ。うちに残るのは私と聖、劉鳴殿とかささぎのみである。
書面に目を通しながら頭には青いサファイアがちらつく。かささぎのことも。こうした感傷をぶち壊してくれるのは、浴槽を洗いながら大声で歌う劉鳴殿の声だ。余り上手くない。ちょっと力が抜ける。良いけど。紅茶を口に含むと、私の可愛い弟が大きい図体に似合わぬちょこちょこした足取りでやって来て、炬燵に入った。私の手元を覗き込む。
「やだ姉さん、俺のこと好きなの」
「好きですよ」
漫才か。私の意図が読めぬ訳でもないだろうに。そんな心情を知ってか知らずか、かささぎはにこにこしている。
「ねえ、登場人物では誰が好き?」
「ゾシマ長老」
三男のアレクセイが心酔していた僧侶だ。人が出来ている。するとかささぎはそうじゃないー、と抗議の声を上げた。
「カラマーゾフ家の内でだよ」
「イワンとアレクセイを足して二で割った感じです」
イワンは冷徹な理屈屋の次男、アレクセイは純粋で清純の三男である。
「足せないし割れないから」
「スメルジャコフも好きです」
私は本に目を据えて言い添える。カラマーゾフの私生児とされる男。
「気を遣わなくて良いよ」
「遣ってませんよ。紅茶を飲みますか?」
「うん」
私は本に栞を挟み、立ち上がった。ティーポットを扱っていると、背後にかささぎが立った。
「俺が今から家を出るとは思わないの」
「思いません。貴方が姿を消す時は、私に悟られないよう、物音を立てないよう去るでしょう」
茶葉に湯を注いで蒸らす。
かささぎが何も言わないのは、私の言葉が正鵠を射ているからだ。青と白のティーカップに紅茶を注ぐと、白く柔軟な湯気が上がった。
評価、2ブクマありがとうございます。
大ベストセラーですが、なろうに『カラマーゾフの兄弟』を
投稿しても見向きもされないでしょう。




