極北の地で叫ぶ
麒麟との約束通り、私は居酒屋に彼を連れて来た。麒麟の兄である昴も一緒である。昴は菅谷を継いだ身として、麒麟以上に忙しい筈だが、スケジュールの合間を縫って来たらしい。それも弟の顔を立てる為なようだから、この兄弟も随分と関係が改善したものだ。
私も聖、劉鳴殿、撫子、芳江、楓、摩耶、景、そしてかささぎを連れて来たので、座敷を貸し切りにさせてもらった。少し遅れた新年会といった感じである。麒麟も昴も煙草を吸わないのでほっとする。豚バラやら砂肝やら牛さがりやら多めに頼み、未成年である楓以外は、焼酎のお湯割りだの、ビールだの、日本酒だの銘々飲んでいる。煤けたような広い座敷は、今は人の賑わいに満ち、力士の手形とサインの色紙などが並んでいる。うちの客間とは異なる、市井の趣である。麒麟や昴は大家の令息であるから、普段は馴染みがないだろう。今はそれなりに寛いで楽しそうだ。
摩耶が水谷を下の名前で呼ぶようになった変化は、喜ばしいことに思える。私は芋焼酎をストレートで飲みながら、近い内に花屋敷にも行こうと考えていた。岡田たちにも会いたい。聖は首から下げた銀色のチェーンに、サファイアのネクタイピンを引っ掛けている。私の命。何があってもそれを死守する気構えの聖から、あれを奪取するのは至難の業だろう。ゲソが美味い。この、烏賊特有のコリコリ感と魚介ならではの風味が良い。茄子田楽も美味。えてしてこの手の食べ物は、歯がその身に深く食い込んだ時に溢れる汁を楽しむものではあるまいか。
昴は、以前に会った時より、大人の貫禄がついたように見える。紺色の、仕立ての良さそうなセーターにジーンズを合わせ、余り慣れないであろう店の雰囲気に鷹揚に馴染んでいる。彼にも麒麟にも、越えて来た壁があった。その厚みを垣間見た私からすれば、この兄弟のしっくりした落ち着き振りは、安心するものがある。
芳江から、撫子と年内に挙式すると聴いた。指輪の問題は解決したらしい。ついては仲人を是非に、と頼まれたので、聖とも話した末に引き受けた。時は過ぎるものだ。私は、今このような朗らかな賑わいをずっと大切にして行きたい。それでも聖の胸に下がるサファイアがあり、かささぎの心中は測れない。正直、彼はもっと早くうちを去るものと思っていた。麒麟の結界があっても、かささぎが心底、本気で家から出ようと思えば、それは不可能ではない。
あの子は優しいから、姉の私を慮り、同情しているのかもしれない。復讐に走れば私が嘆くと知って、尚、断行する決意がまだつかないのではないのだろうか。ここに来て恭司の働きが効いて来る。もし、かささぎが動いても、隼太は退いてくれるだろう。過信は禁物だが、恭司との仕合の際、隼太の処方したコトノハに嘘は見出せなかった。ふと、かささぎと目が合う。彼は巨峰チューハイを飲んでいる。彼の目元が和む。子供をあやすように。
私はだから絶望した。
かささぎが決して復讐心を手放さないと確信したから絶望せずにはいられなかった。温かな賑わいの中、私だけが極北の地にいるかのようだった。
期せずして、二人同時に手洗いに立つ時があった。共に廊下に出て、言葉はない。かささぎは私が知ることを知った。だから沈黙するのだろう。
「どうして?」
「姉さん」
「どうして、ずっと一緒にいてくれないの」
「…………」
「私を、置いて行こうとするの。私では駄目ですか。布帛さんでなければいけませんか」
我ながら道理の通らない言葉を吐いている自覚はあった。だが止まらない。かささぎが苦しそうに顔を歪ませる。
「姉さんには、義兄さんがいる」
「聖さんと貴方は違います。姉が弟を喪うまいとして、何のおかしいことがありますか」
かささぎの顔がくしゃりと崩れた。ああ、これは悲哀の顔だ。
「俺は。姉さんが大事だよ。多分、姉さんが思うよりずっと大事だ。でもごめん。男だから譲れないものはある」
私は目を固く瞑り、開いた。
「駄目です。行かせません。かささぎさんの脚を折ってでも、隼太さんのもとには」
「姉さんには出来ない」
ここに来てかささぎが明瞭な声で断言した。
「そんなことをするには、姉さんは致命的に優し過ぎるんだよ」
私は耳を塞ぎ、再び目を閉じてかぶりを振った。まるで頑是ない子供だ。かささぎが座敷の襖を開ける音がした。続いて、声。
「義兄さん。義兄さん、ちょっと来て」
ああ、私を聖に託すのだ。これ以上の問答は互いに辛くなるだけだから。
聖はすぐに駆け付けた。軽やかな風のように。一見して、何があったか悟ったのだろう。私に手を伸ばすが、私は身を引いてその手を拒んだ。今、欲しいのはそれではない。その場にうずくまる。
「ウサギさん、お願いです」
「はい、何ですか」
「かささぎさんを、行かせないで。見張って。この先ずっと。私の、弟です。弟なんです」
廊下が静かになった。いつの間にか座敷から漏れ来る物音すら途絶えている。皆が私たちの遣り取りに耳を澄ましているようだ。
「かささぎ君」
「……はい」
「僕にとってこと様の命令は至上だ。だから」
聖が息を吸う。
「だから、君の本懐を遂げさせる積もりはない。今後もその方針で動く」
かささぎは何も答えない。聖の手がうずくまったままの私の頭をそっと撫でた。
ことさんがだいぶテンパってます。




