温情の海
私は数回、深呼吸した。尤も逆さに宙吊りされているので、健やかな呼吸とは言い難い。白夕の足元、気づけば黒い階段が出来ている。彼はゆっくりその階段を上った。私の頬に白い指が添えられる。ひんやりとして冷たい指先。
「美しいですね。傷を負っても吊られても、尚、貴方は美しい。きっとその亡骸もまた等しく美しいのでしょう」
白刃がいっそ愛おしむように、そっと私の首に当たる。その時、私は埒外な考えを抱いた。白夕を悲しい人だと思った。彼の抱く闇は、きっとさだめのそれよりもずっと深い。なればこその酔芙蓉。私の命を散らすことで、彼は救われるだろうか? いや、その程度では日照りに数滴の雫。到底、足りないのだろう。
そうして私は無慈悲だから、数滴の雫さえ彼に与えることを惜しんだ。白刃が動く刹那。
「温情の海」
コトノハを処方した。
白夕が体勢を崩す。階段を上る途中であったさだめも同様に。私を縛めていた影が消え、黒い不気味な階段も消える。私は宙から地面へと何とか着地した。温情の海は武器を手にし、私に害意を持つ者にのみ服用される。加えて私が命の危機を切実に感じた時にしか処方は不可能。その内実は、服用した者に最も懐かしく慕わしい記憶を思い起させること。数秒は身動き出来ず、文字通り海のような温もりに心身を浸す。私は目を瞑る白夕とさだめを横目に背中の傷の痛みに喘ぐ。
「手出しされず助かりました」
私に手を貸すでもなく前方に立つ人に声を掛ける。
「師匠」
劉鳴殿がいることには試合の途中から気づいていた。静観には何かわけがあるのだろうと私はあえて見ない振りをした。劉鳴殿の気配の消し方は見事なもので、白夕でさえ気づいていなかった。緑のパーカー。ダメージジーンズ。赤い野球帽を被った劉鳴殿の双眸は赤なのに無色で、何を思うか知れない。
「なぜとどめを刺さないのですか?」
声には厳しい詮議の色があった。
「裏は滅ぼすべしと、言った筈ですが」
「……彼らは今、無防備です」
「そうです。貴方の処方ゆえにです。その隙を突かずして何の剣客か。天響奥の韻流宗主の名折れでしょう」
「…………」
歯を食い縛る。目の前が霞んできた。劉鳴殿ともう一人。滑り込んで来た人影がある。纏う色彩は劉鳴殿と同じ白と赤。遠のく意識の中で、彼が私を案じて焦っていることを察する。
「聖」
言わなくては。そうでなければ白夕たちの命がない。
「聖、ころさ、ない、で」
劉鳴殿から守って。
その至難の懇願を口にしたところで、私の意識は途絶えた。
2評価、ブクマありがとうございます。
聖、大変ですね←他人事




