花笑みの陥穽
隠れ山はふるさとと同じく、現ならぬ場所にして。
在っても在るという認識がずらされる。認識阻害という言葉が当たるだろうか。
付近の住民たち(と言っても過疎地域が多い)は意識の根底に、彼の地を禁域であると刷り込まれる。
それはただ空気を吸い、水を飲むだけで。
換言するならば近隣に生活するだけで。
動物の擬態にも似たこの現象は、音ノ瀬の不思議の一つだ。当主である私でさえ解明出来ない。
国土交通省の隠れ山に対する把握も、のらりくらりとずらされている。
――――政治・軍事に関わるなかれ――――
だが公務員になる音ノ瀬はいる。官僚になる者も。
どこからを「関わる」と見なし、どこまでを認容するかの裁断は、最終的に私に委ねられる。音ノ瀬の人間が国の中枢で上に登る程、一族内では却って萎縮し、謙虚な態度を求められる構図は通常とは逆で、どこか滑稽味すらある。
それでも役人を志す人間には、職や給与の安定を求めてではなく、理想を掲げた者が多い。彼らは公務員試験を受ける前に、私を含む音ノ瀬一族重鎮の前で、動機等を審問される。審問は当人が公務員である限り、退職するまで定期的に行われるのだ。
音ノ瀬のヒエラルキーでは下位に回ることになるのに、希望者はぽつぽつと現れる。
私はそうと悟られぬよう、彼らを敬意と憐みの眼で見送ってきた。
それでもって。
駐車場すら望むべくもないのが隠れ山なのだ。
のっぱらに、秀一郎は当然のように違法駐車した。
正確には、ここでは音ノ瀬が法であるから違法ではないのだが。車を降り、名も知らぬ雑草を掻き分けゆく頃には、出発時に比べて空気がだいぶ温んでいた。白い塊がもう生まれない。
「烏が多いな」
聖の呟きに釣られて私も秀一郎も青い上空を見た。
青に旋回する黒い鳥たち。
油彩で描いた点描画みたい。
「やあ」
私が左手を挙げて声を掛けると、中の一羽がすいと下降して、私の身体のぐるりを緩やかに、観察するように巡り、それからまた空に舞い戻った。
変わった子だ。
「おしら様かあ、はあー!」
出し抜けに発せられた嗄れ声に、私たちは一同、ぎょっと驚いた。
見ると季節柄、もう寂しい色になった草原に痩身で、背中の酷く曲がった老人が立っていた。彼の顔は聖のほうを向いている。
「はあ、ありがたやあ、ありがたやあ、」
両手を擦り合わせて聖を拝んだと思うと、次はぐるっと私に身体の正面を動かす。
しげしげ、まじまじ。
そんな感じで眺め回される風だが、これがそう不快ではない。祖父を思い出さないでもないし。
「はあれ、まあ。こっちは神子様じゃあ。はあー!」
また何か、感心だか感動だかされる。
そうして私のことも手を合わせて拝むと、もう用は済んだとばかりに踵を返し、彼の腰よりはるかに高い草の波をひょこひょこ分け入って見えなくなった。
秀一郎はスルーされた。
「不思議な御老体でしたね」
スルーされた鼈甲ぶち眼鏡男が評する。
「おしら様って蚕の神様ですよね。僕は関係無いんですけど」
「髪が白いからじゃないですか。あと寝癖みたいだし?」
「はあ」
解せない、と言う顔の聖に私はかなり適当なことを言う。
謎の老人の出現でちょっと気抜けした私たちは、辛うじて山道であると識別可能な地点を目指して、ざわざわと草を鳴らしながらまた歩き始めた。
歩きながら私が喋る。
「……でも確かに不思議ではあります。あのご老人、目が見えておられなかったようなのに」
「え」
どんぐりまなこの男たちに、私はそう判断した理由を語る。
「両目がすっかり白濁していました。そもそも麓とは言え、どうしてこの山に立ち入ったのか。聖さんの風貌は普通であれば、特殊なものと視認出来ない筈ですし」
隠れ山と同じ作用が、聖にも真葛にも働く。
同族以外には、よくよく見なければ白髪赤目に気を惹かれることはない。
口さがない連中には鬼兎の擬態とも呼ばれる。
盲目の人には常人に見えないものが見えると言う。現と離れた領域とも、親和性が高いのかもしれない。
仏の座の群生する横を過ぎると、右手に小さな神社が見えた。
朱塗りの鳥居や石造りの立派な狛犬は、昔の音ノ瀬の職人が作ったか寄進したのか。
狛犬の片方は地球儀のように大きな玉を前脚で踏み、もう片方は。
「雄のほうが子守りをしてるんですね」
聖が何気なく言うので、私も秀一郎も、その狛犬を凝視する。
成る程。
ミニチュアの獅子が足元に戯れている。子供連れか。可愛いな。
「どうしてこっちが雄だと判るんですか?」
「え?見れば判りますよ」
「聖君。常識のような顔してるけど、違うからね」
ここは秀一郎の突っ込みに私も賛成して頷く。
聖。
そこで、どうして判らないんだろう、という顔をされてもな。
やいやい言っても仕方無いので先に進む。物見遊山ではないのだ。
「獅子もイクメンですか……」
しかし益体も無いことをつい言ってしまう。背中はもう汗ばんできて、日頃の運動不足を省みる。
先頭の聖、殿の秀一郎がまたこれに反応するのだ。
「子供は好きです」
「僕も楓さんは可愛いと思っています、ことさん」
「そうですか」
おざなりに答えておく。
聖が子供好きなのは知っているし、秀一郎はまあそうなんだろうけどどうでも良い。
何を改まって申告している。
人が余り入らぬ山は、空気の濃厚さが桁違いだと思う。
国が隠れ山の仮の主なら、音ノ瀬も仮の主ではなかろうか。
矮小な思惑を寄せ付けない厳然とした気配が満ちて、一人であれば怖気づいたかもしれない。馴染んだ風すら余所余所しいようで。
赤茶系の落ち葉、枯れ葉と針状にすっくと伸びた緑の葉の中に、紫の花を見た。
そう思ったら目の錯覚で、お菓子の包み紙のようだ。
ごみのポイ捨て。不法投棄。
それはともかくとして誰の仕業だろう。
一瞬、私の脳裏に隼太の姿が浮かんだが。
あの男に、こんなところでむしゃむしゃとお菓子を食べる可愛げがあるとは、とても思えない。
無い無い、と首を横に振り、歩を進める。
この世には説明がつかないことのほうがずっと多いのだ。
桜の樹の近くに、水仙が咲いている。日本水仙のようだ。
先程のすっくと伸びた葉の主は、これだったと見える。
ナルキッソスの神話がとかく有名な花だ。
こんな風に。
道の花や草木に虫に気を紛らせて、気持ちを平らかに保とうとする。
小さな獅子に、内心密かにざわめいた胸を。
花屋敷の場所や光景を私が強くイメージ出来るなら、コトノハで飛ぶことも叶うのに。
焦燥に炙られながら歩く道は実際よりも険しく感じる。
紅葉。紅葉の山。――――楓。
もうすぐ、貴方に。
皆が沈黙して、どのくらい歩いたか。
気温はぐんぐん上昇し、顔面に当たる日光が痛いくらいになっていた。
鼻腔に甘やかさが届いた。
はっとして顔を上げれば、花に囲まれた洋館が見える。
――――花屋敷。
錆びた鉄柵の間を抜け、古く厳めしく、傷みも見受けられる玄関の扉まで来ても迎え撃たれる気配は無い。
花の香り、香り、香り。芳香に取り囲まれるようだ。
隼太は風を聴いていないのだろうか。
聖が扉についた真鍮の把手を掴もうとする。
瞬時に、彼は手を退けて後ろに跳んだ。
扉が勢いをつけて内側から開いたのだ。あのままの立ち位置であれば扉に身体を打たれただろう。
扉を開けたのは隼太ではなかった。
長身痩躯。
があ、と烏の声が聴こえる。
彼は聖と秀一郎には目もくれず、私を見るとにこっと笑った。
笑い返しそうになるような、純真無垢で嬉しそうな笑顔だった。
真っ白い砂糖みたいな笑顔だ。
花の香り。
甘い。
笑い。
甘い。
「お帰り、磨理。待っていたよ」
そのコトノハを服用した私の意識は、暗転した。




