音律は並行して紡がれる
蓄音機。
に似せた、アンティーク調レコードプレーヤーが、大きな鈍い金色の喇叭口から物憂いメロディーを吐く。
アルビノーニのアダージョ。
第二次世界大戦中、連合国軍によるドレスデン(ドイツ東部の都市)空襲のあと、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見された『ソナタト短調』の断片に基づき、編曲されたと隼太は聴いている。実際はアルビノーニではなくレモ・ジャゾットの作曲らしい。
戦火を潜り、息を吹き返した楽曲を小気味好いと感じる。
散る美学も良いが、意地汚く浅ましく生き続けるもまた好し。
オルガンの音は散り果てた亡霊たちの声だろうかなどとも。
(アルビノーニ。アルビノ。片や人名、片や遺伝子疾患だが、音が通じるな。アルビノは白子とも呼ばれたか……)
フランス西部コニャック地方産のブランデー(その為、広くコニャックと呼ばれる)レミーマルタン ルイ13世を、舌先から喉奥に転がしながら。レミーマルタンのトレードマークはケンタウロスだ。しかしルイ13世の凹凸と装飾に満ちたデキャンタボトルには百合の紋章ばかりが華やかで、隼太に些かの不満を抱かせる。花よりも異形の意匠を彼は好む。
(半人半獣。これまた、鬼兎には似合いじゃないか)
グラスの脚を持つ隼太の手が笑いで揺れ、琥珀の海にもさざ波が立つ。
(否定するだろうが。お前は俺に似ている)
旋律にも遠慮せず炎が踊り歌っている。
冷え込みの厳しい夜には、応接間の暖炉で明るい炎が爆ぜる。
炎舞曲の苛烈なる美よ。
汝、戦火の申し子なり。
人の世を舐めよ、舐め尽くせよ。
それもまた好し。
揺り椅子を暖炉の前に移動させ、赤々とした熱を眺めていると、眼球まで乾きそうだ。レミーマルタンを温めるのは下策なので、グラスを持つ右腕だけ、心持ち火から遠ざけている。
アダージョが流れる。
一歩、外に出れば幾星霜を代弁するかのような星月夜を目にするであろう、美しい晩に。
隼太はコトノハを伴わない音楽が好きだった。
音ノ瀬でありながら。音ノ瀬であるからこそ。
ただ音階に身を委ねるだけの安楽。
コトノハを聴き分ければ血みどろの肉塊を掴み上げるような感触にも、押し隠しても臭う真情の醜悪さにもぶち当たる。
だがそんなものだろう、と隼太は考えていた。
何の不思議があろう、醜悪それ即ち人ではないか。
滑稽なのはそんな臭いを撒き散らしながら、自分は白く清い花のようだと自負する人間の少なくないことだった。
もちろん隼太はそんな人間には優しく笑いかけ、その通りだと頷いてやる。
ではお前が他方で振りかざしているコトノ刃は何なのだ、などと指摘したりしない。
浴びた返り血が臭って堪らぬ、と親切に揶揄してやることもない。
何の不思議があろう、歪みそれ即ち人ではないか。
醜悪美こそは人の成せる至上の芸術。
これは矛盾ではなく、音楽に安らぐこととはまた別の価値観である、と隼太は考える。
隼太が認める至上の芸術を知らないのは愚かで、知らない振りをするのは怯懦で、確かに目で捉え力を持ちながら動こうとしないのは、度し難い蒙昧だった。
音ノ瀬ことはこの三区分で言えば、蒙昧に他ならない。
鬼兎も、秀一郎も。
だから隼太は彼らの檻を壊し、蒙昧から解き放ってやろうと考えるのだ。
「あえいうえおあお」
「……かけきくけこかこ」
音ノ瀬一族がすわ戦いか、と腰を上げる前、時間があれば発声練習や読書をして過ごす。
ふざけているのではなく、これもコトノハを円滑に処方する準備なのだ。
本を読むのは新しいコトノハ採集の為。他に座禅を組んで観想し、コトノハのイメージを高めるなどがある。
私と聖と秀一郎の三人で、もしかするとこれが最後となるかもしれない晩餐を終え、秀一郎と明日の待ち合わせ時刻を確認して彼を送り出した。それから客間に出した炬燵で、私の発声練習に適当に合いの手を入れながら、聖は分厚い本を読んでいる。歩く辞書のような男にも準備は要るらしい。
しかし、私は正直、飽きた。
咄嗟にどんなコトノハが処方出来るかなど、その瞬間になってみなければ解らず、日々の積み重ねが物を言うあたりは学生の試験に似ている。花屋敷が、一夜漬けが効く程に楽勝な科目だとも思えない。
「させしすせそさそ~」
上半身を後ろにばたりと倒し、ごろごろ転がる。
「楓さん~、楓さん~」
「きっと明日、逢えますよ」
聖が本を閉じる音がした。
付き合い良いなあ。
「……聖さんの琴が聴きたいです」
脈絡無く、天井の電灯の、浮き彫りの陰影を眺め、そこに琴があるかのように私は言う。
こと、と呼ばれる琴と、きん、と呼ばれる琴は厳密には違う。和琴(大和琴・東琴)とは別に、奈良時代に渡来した系列を「きん」と呼んだらしい。
「あれは、寺に置いているので」
「そうですね……」
聖は書籍、武術のみならず琴も嗜んだ。昔はよく聴かせてもらった。
奏楽や舞踊は祭祀にも通じるので、古くは神祇官に所属していた音ノ瀬一族の聖が琴を奏でるのも、あながち不思議ではない。
だから聖は掌だけでなく指の皮も厚くて固い。
りゃあんりゃん、りょんりょん、と妙な音色は竹林までも響き渡るようだった。
寺の縁側で聖が琴を爪弾いていると、春には桜の花びらが、秋には紅葉が、楽に惹かれたように舞い込んだ。
目で追って、綺麗だなあと思ったのは、花びらのことだったか聖のことだったか。
白髪についた花びらを取ってやりたくてうずうずした。
「一番、よく弾いてくれた曲は何と言うんです?」
「……憶えていません」
「なぜそこで嘘を吐く」
起き上がり、やや憮然として突っ込む。私には嘘が通用しないと承知だろうに。
「憶えていません」
こいつ。
頑として言い張る積りか。
「じゃあヒントで良いですよ」
「――――平氏……?」
「解るか。思いつく中で絶対解らなさそうなチョイスでしょう!」
大人としての妥協を足蹴にされたようで、思わず、聖の胸倉を掴んでしまった。
「清盛では」
「変わっていない」
胸倉を揺さぶる。私にも平静でいられない時はあるのだ。もしもあの子が帰らなかったらどうしようなどと――――。
敏捷に炬燵から出て、跪いた聖が私の両腕を掴み胸倉から外させた。
「聖――――」
呼び終えたあとは唇が重なったので、何も言えなくなった。
頬がぴったり掌に包まれて、顔の前後左右の内、三方を押さえられてしまう。
「ん」
声を洩らしたら、重なりがもっと深くなった。そういう仕組みなのか?
りゃあんりゃん、りょんりょん、と。
在りし日の音が響き渡る。
苦しい。
酸素欠乏によってか、感情の昂ぶりによってか。
聖の口は思ったより柔らかいのだな、などと思う。
赤い瞳がきらきらして綺麗だ。
きらきらが間近で細められて、光がこぼれそうだ。
「『想夫恋』です」
今ではすっぽり、聖の腕の中に納まった私の耳の真横で囁かれる。
熱がありそうな声だな。私の心臓も狂っているみたいだが。
「『平家物語』、〝小督〟のくだりで出てきます。御存じかと」
「……峠の嵐か松風か、……」
「はい」
耳の真横でコトノハが続いてどくどくする。
平家方でもない生まれで帝の寵愛を受けた女性・小督は、平清盛の怒りを買い、京都・嵯峨野に隠れる。帝の命令で彼女を捜しに来た男は、月の夜、琴の音に導かれて小督の居所を突き止めるのだ。
風情を知る者が、まして楽器を奏でる人間が、指を動かさずにはいられない佳き夜の、粋な導きである。
この時、小督が弾いていた曲こそが、『想夫恋』だった。
『想夫恋』は女性が男性を想っての楽曲と日本では解されてきた。けれど実際は『相府蓮』と書くのが正しく、古代中国は晋に端を発した曲であり、由来は色恋とは無縁らしい。人品の、蓮の如き清廉さを称えたものだったとか。私が読んだ本にはそうあった。
そもそも、女性が男性を想っての、とされていた曲をなぜ私に弾くのか。
「こと様。些末事をお考えですね?」
「どうして、……」
「攻勢に出たか。貴方が僕を呼んだからです」
「…………」
呼んだ――――私が?
何の話だ。どのコトノハだ。
「私のウサギさんと、変わらずに呼んでくださったからです。だから僕は、これを最適解と信じる」
いよいよ強く抱き締められ、私は怖くなった。
女の腕が風にしなるたおやかな枝なら、男の腕はそよがぬ樹の幹だ。皓々と内側から発光して、絡め取った相手を焦がさんばかり。
何かを決断してしまった男は怖い。
それさえ心決めれば、あとは未練など無いと言うようで。
散って融けて消えられたらどうしようと立ち竦む。
「死ぬことなど許さない」
「生きますよ。貴方に、お渡ししたい物もあります。……その時口にする僕のコトノハに、頷いて頂けるなら……きっと橋も渡りましょう。今は、これだけで」
赤い瞳に私がいる。ずっといたのだ。
また、降ってくる。私は目を閉じて甘受した。
…聖。炬燵よりも熱いな。




