逃げる石鹸
風は静かで、私に何も伝えなかった。
だから、楓と恭司が連れ立って来た時、恭司の負傷を見てやや狼狽えた。
「さだめさんですか。白夕さんですか」
「さだめだ。架橋さだめの、ほう」
苦痛そうだったので、とにかく客間に迎え入れる。聖は既に私の横にいる。撫子と芳江も傍に。聖の、処方を強める力が発揮される。
「癒」
左手の甲は、黒く膿んでいたが、コトノハにより治癒出来た。リーンと釣忍が鳴る。私は、恭司と楓の話を聴きながら、二人の身体をざっと一瞥した。他に怪我はない。何よりだ。
「やれやれ、間に合わなかった」
「うわあ!」
いつの間にか劉鳴殿が客間に上がり込んでいた。うちの防犯体制はザルか。
「僕が仕合えれば良かったんですけどねえ。まあ、今夜は親子丼でも食べますか」
「緊張感が無さ過ぎますよ。師匠」
「何を仰るか、ことさん。人の食は大事なのですよ。生命の根幹を司るのですから。鶏肉と卵が安かったんですよ」
「会話の振り幅を抑えろとんちき師匠」
「こと様」
「じゃあ、台所お借りしますね~。聖君もほら、手伝って。撫子さんたちも」
台所にカルガモの親子よろしく、劉鳴殿を先頭にぞろぞろ去ってゆく。私と楓と恭司の三人にしてくれたのだ。恭司は要らんけど。楓をぎゅっと抱き締める。
「無事で良かった……」
「恭司君が守ってくれたから」
「ありがとうございます、恭司さん」
「いや。楓のコトノハにも助けられた」
丁度、風呂の湧いた時間帯だ。私は楓を連れて浴室に向かった。恭司は台所に駆り出されているだろう。
浴室で、楓が石鹸を取り損ねた。取ろうとしても、石鹸は生ある者のようにつるりつるりと滑る。
「あ、あれ、おかしいな……」
楓の手が小刻みに震えている。さだめと遭遇した恐怖がまだ残っているのだ。私は楓をまたも抱擁した。年若い少女の肌は水蜜桃のようで、弾力があり湯を弾く。ぴとりと、楓も身体を私にくっつけた。それから、こんなんじゃ駄目なのに、と言う。小さな呟きだった。
「楓さんはよくやりましたよ。恭司さんの助けになりました」
「ことさん。私、怖くて。でも、そんなの、良くないから」
震えるか細い声。何を良くないことがあろうか。
「人ならば恐怖するのは当然です。自然本能なのです」
私は、少し身を離して楓の両頬を掌で包んだ。瞳が潤んでいる。
「生きていてくれてありがとう。無事でいてくれて感謝します」
「……それだけで良いの?」
「他に何も望みませんよ。欲を言えば幸せでいて欲しい」
目を細める。
楓が、またぎゅうっと私にしがみついた。
「ことさんが、幸せだと私も幸せ」
「おや。両想いですね」
見たか恭司。いや、見ている筈もないし、よしんば見ていたとしたら逆さ吊りの刑だけど。
それでも楓。
いつか貴方はあの若者の元に行くのだろう。私は、少しの寂しさと感慨を以てそれを見送るだろう。隣には聖がいて。そんな未来が来るよう、私は強く祈った。
評価、ブクマありがとうございます。
14日から17日まで留守にします。
可能な限り開店するのでよろしくお願いいたします。




