さだめが通る横断歩道
音ノ瀬隼人の日記の中には、恋人について記された箇所は見当たらなかった。その程度の軽い存在だったのか。それとも日記には軍事に関わることしか記さないと決めていたのか。一目見ただけだが、あの子は、降り注ぐ愛を、知らないように思えた。人の子であれば享受して然るべきものを。
隼太はレミーマルタンのボトルを傾けた。今夜の彼は機嫌が良い。目の前に座る客人のせいか。大海がちょっかいを出したがってうずうずしているのが判る。この、一見少年と見える男は、自分に少し似ている。マンションのリビングで、漆黒の髪を長めに伸ばした架橋さだめは、探るような、また、値踏みするような目つきで隼太を見ていた。
「大海。ホットミルクでも出してやれ」
「はいはいっと」
「あんたと同じのが飲みたい」
さだめの主張に、隼太が軽く目を瞠る。
「……お前の実年齢は置いておくとして、この酒はそこらのガキが飲んで良い代物じゃない」
「それでなけりゃ飲まない」
頑固だ。隼太はその頑固さを微笑ましくではなく鬱陶しく感じた。これは確かに音ノ瀬隼人の血筋だろう。
「大海、グラス」
「良いの?」
「ああ」
「じゃあ僕も」
「お前は駄目だ」
「何でさー」
むくれながらも、大海は脚の長いグラスを持って来た。まろやかな硝子の曲線が優美である。
さだめのグラスに酒を注いでやりながら隼太は尋ねる。
「で? 俺に何を求める? 家出息子」
「家出じゃない。きちんと独り暮らしして自活してる」
「それは結構。質問を繰り返そうか。興味本位でお前に逢いに行った俺に、お前は何を求める?」
さだめは差し出されたグラスを受け取った。僅かの逡巡の後、グラスの縁に口をつける。
「面白そうかと思ったから」
「何だと?」
「あんたの話。フォーゲルフライだっけ? 面白そうだと思った。じいさんが俺たちのこと、とっくに忘れ去ってたって言うのなら、あんたに協力するのも、逆に反発するのも多少なり復讐になるかと考えた」
「成程な。どうやら頭はお利口のようだ。だが反発と復讐は真逆だぞ。お前はどちらを選ぶんだ」
「あんたをしばらく観察してから決める。それから……」
「それから?」
「音ノ瀬ことに逢う」
「止めておけ。あれは清い毒だ」
「興味があるんだ……。じいさんが妬みと独りよがりから出奔した、音ノ瀬本家の現当主に」
「言い方を変えよう。あれは虎や龍の類だ。外見でふらつくと頭から喰われるぞ」
さだめが笑った。花びらが散るような、ひらひら舞いながら地に落ちるような笑いだった。隼太の背筋がひんやりとする。
「喰われる前に、殺せば良いだけの話だ」
2ブクマありがとうございます。
今日はだいぶ涼しい一日でした。
秋も遠くないのでしょうね。
とか言ったらまた炎天下になるのですよね知ってます。




