母子
子供の頃、たくさんの昔話を祖母から聴いた。
私の情操教育を兼ね、コトノハ採集させようという教育の一環だったのだろう。
中には幼心にも忘れ難い話があった。
娘を人柱に奪われた母親の悲話だ。
築城の為であったか、川に橋を架ける為であったか、そこは憶えていない。
いっかな上手く進まぬ事業にしびれを切らした土地の領主が、若い娘を無理矢理、人柱にしようと拉致した。
領主の耳に届くような、器量と気立ての持ち主だったのだろう。
母の嘆願も虚しく、娘は人柱に――――生贄にされてしまう。
母親は呪った。
領主を呪って呪って。
ある渺渺とした平原の、手に触れる草から片っ端に引き抜き続けた。
呪詛の言葉を吐きながら。
草で切った母親の手で、平原は赤く染まった。
その話を耳にした領主は母の呪いを恐れ、人柱にした娘を祀る祠を建てさせたという。
話はそれで仕舞いだ。
祠を建てたところで娘が生き返る筈もなく、母の嘆きが癒える筈もない。
不思議なことにこの話に父親は登場しなかった。
母一人子一人であったのか。
であれば尚更に、嘆きも恨みもいや勝ったことだろう。
〝呪詛のコトノハなど、間違えても処方するのではないよ。こと。けれど…〟
祖母の眉が苦しげに歪んだ。
〝たかだか祠一つで。子を奪われた母親の恨みが晴れるものか〟
いつもは淡々と語り終える祖母が、珍しく感情的な口調で呻いたことを憶えている。
三人の子を産んだ祖母だが、娘と息子を一人ずつ戦争で亡くしていた。
あの、暗くて怖いトンネルのようにも感じた昔話に、今なら我が事のように寄り添ってしまえる私がいる。
秋雨がまだ粘っている。
太陽の休息期間か。それも良いだろう。
車から降りた彼女は傘を差し、駐車場の砂利を藤色のスエードのパンプスで歩み出した。
後ろでまとめた長い白髪が尻尾のように軽く揺れる。
長い坂道を登ると、ことの家が見えてくる。
本家だから、だろうか。
外観に変わらない印象を抱くのは。
痩せた桜も紅葉を始めている。
脇をするりと通り過ぎた三毛猫に構わず、ほっそりした人差し指で呼び鈴を押す。
確かな手応えを確認し、傘を畳むと引き戸が開いた。
「――姉さん」
「聖。こと様は?」
久し振りに対面した姉弟だが、挨拶も省いて、沢口真葛は弟に質した。外にある陶製の傘立てに畳んだ傘を手早く入れ、再び視線を聖に戻す。
聖と同じ赤い目は険しくないが和んでもいない。
「昨夜からずっと眠っておられるよ」
「そう。不甲斐無いわね、聖」
さらっと言ってのけ、パンプスを脱ぐと勝手知ったる家に上り込む。
言葉は厳しいが声音は淑やかで、挙措も全て優雅なので強引な印象を与えない。
足音が密やかなのはことへの気遣いもあるが、普段から楚々と動く女性だからだ。
廊下を軋ませずに通り抜け、客間を見渡し、ことの寝室に至るまでに、音ノ瀬本家の空気に真葛なりに緊張していた。
(――――代替わりしてから、少し変わったみたい)
真葛が知る以前より、柔軟になり、包容力が増したような気配を感じる。
(こと様が変えられたのか)
寝室の襖の前で、一旦、正座して姿勢を整える。
副つ家と音ノ瀬一族を離れて、外部の人間と真葛が結婚するに際して上がった反対の声を諌め、説き伏せて真葛を解き放ったのはことだった。
「こと様。真葛でございます。失礼致します」
弟からことの窮状は聴いていたが、掛けるコトノハに籠める労りと思慕の念を惜しむ積りはなかった。
額に温かくて柔らかい掌が触れた。
(お母さん?)
いや違う。母は。もう――――。
今日はまた、瞼が一段と重い。身体も気怠くてならない。
雨はまだ降り続いているのだろうか。
……なぜ、真葛がここにいるのだろう。
心配そうに、けれど親しみと情のある微笑を浮かべて私を覗き込んでいる。
もう音ノ瀬とは無縁に、幸せに暮らしている筈の女性だ。
昨日とは違い、微かなコトノハが聴こえる。
御無沙汰致しております、と。
ああ、本当に。私は頷く。
「瞳君は元気か?」
彼女の、確か今年で五歳になる息子のことを尋ねる。自分の声は相手よりも聞き取りやすい。
真葛が破顔する。
今日はお義母様に取られてしまいました、と。
いたずらっぽく語る。私に負担を掛けまいとしているのに加え、彼女が婚家と円満に過ごしていることを知る私はほっとした。
まだ食欲の無いことの為、台所で柚子ジャムをお湯で溶かし、柚子ジュースを作りながら、真葛が聖に言った。
「状況を聴いて、この目で見る限り、呼んで貰って良かったと思っているわ。でも、貴方のことは見損なった」
「無理も無い」
殊勝に同意する聖をちらりと見上げ、真葛はマドラーでカップの中を掻き混ぜる。
「自信が無いならこと様から離れなさいな」
「……こと様が母君を呼ばれた」
真葛のマドラーを持つ手が止まる。
「たすけて、と。僕は男だから……姉さんのほうが、今はこと様の傍らにいやすいかと考えたんだ。巻き込んで申し訳ないと思っている」
淡い口紅を引いた唇を薄く開いて、真葛は柚子ジュースの明るく黄色い水面を見つめた。
温かい湯気。健康的な発色。
全ての子供時代がそんなものに守られる訳ではない。
ことの母は娘に対して情の濃い人間ではなかったと、真葛も聖も知っている。
開いた唇を、真葛が軽く噛んだ。
「解ったわ。それなら」
それならどうしようもないわね、と真葛は目を伏せる。
柚子ジュースには蜂蜜を多めに入れようと思った。




