君が欲しい
夕食の支度をしているのだろうか。煮物の匂いがする。ゆかしく紫に染まる空が広がる暮れ。恭司が合鍵を使ってドアを開けると、「おかーえりー」という間延びした声に迎えられた。
台所に立っていたのは大海だった。尤も隼太は料理らしい料理などしない。菜箸を手に振り向いた大海は、恭司を見て薄い笑みを浮かべた。
「おや、恭司か。隼太かと思ったよ。久し振りだね」
「大海さん。隼太は?」
「朝方、出たきり帰らないねえ。夜は食べると言っていたから、外泊はないと思うけど」
「待ってて良い?」
恭司の問いに、大海は面白そうにあははと笑い声を上げた。
「良いも何も、ここは君のうちでもあるじゃない。好きにしなよ。家出息子が帰って来たからって、目くじら立てる程うちは狭量じゃないよ。蕎麦茶でも飲むかい」
「うん。ありがと」
リビングのソファーに腰掛けた恭司の前に、エプロン姿の大海が蕎麦茶の入った白いコップと、薄く切った羊羹を置いた。変わらない甲斐甲斐しさに、恭司の強張っていた心が緩む。蕎麦茶は、大海が特に好んで飲む飲み物だ。昔からそうだったと隼太が言っていた。
「お煮しめお煮しめキチガイ地獄ぅ~」
大海の鼻歌に思わず蕎麦茶を吹き出しそうになる。コトノハの精神的攻撃となる言い回しと夕食のおかずを変に組み合わせないで欲しい。物騒さにひやりとさせられると同時に、大海にそうした常識を求めるのも間違っていると考え直す。彼は狂った人なのだから。普通の会話を交わした後ではつい忘れて油断してしまう。
羊羹を食べ終えた時、玄関のドアノブが音を立て、次いでドアが開く音がした。
変わらない紫陽花色のコートを纏った隼太が、恭司を視界に入れると双眸を細くした。
「来てたのか。それとも、修行に耐え切れず逃げ帰って来たか? 恭司」
「あんたに話があったんだよ」
「隼太。はい、蕎麦茶。羊羹と塩昆布とどっちが良い?」
「お茶だけで良い」
「はいはい、と。あ、手洗いうがいちゃんとするんだよ」
「煩い。お前は俺の親か」
「親でしょうが」
隼太が洗面所には向かわず恭司の向かいのソファーにどっかり腰掛けたのを見て、大海がわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「で? 話って?」
「音ノ瀬ことに就いてくれ」
「のっけから本題か。昨日はかたたとらコーポレーションが来たぞ」
「え」
「モテる男は辛いな。あちらは小切手を土産に持参したが。俺が音ノ瀬に肩入れするのは都合が悪いと言ってな。それで、恭司。お前は何を土産にここに来た?」
恭司はこくり、と咽喉を鳴らした。思ったよりかたたとらコーポレーションの動きが早い。そして恭司は手札となるような代物を持ち合わせていない。言葉を失くした恭司を、隼太は凍てついた瞳で眺めた。チャイムが沈黙を破るように鳴り響いた。大海がはいはーいと言って出る。客は男のようだ。低い声がリビングにも届く。重低音。どこか人を安心させるような声音。
「お客さんだよ」
「失礼する」
姿を現した偉丈夫は、音ノ瀬玲一。秀一郎らの父親にして、希代のコトノハ使いだった。
「お偉いさんが来たな」
一転、隼太がにやにやして顎を撫でた。玲一はソファーには座らず、恭司を見た。その眼差しは全てを了承している色で、恭司の心に仄かな安堵の炎が点った。
「音ノ瀬玲一。あんたも恭司と同じくちか。俺に音ノ瀬に就けと言いに来たか?」
「そうだな。恭司君。君の過去は問うまい。今、君は音ノ瀬の為に動いてくれている。そのことに礼を言おう。さて。音ノ瀬隼太君。無粋な前置きは省こう。君の言う通り、私は君に当方に味方してもらうべく説得に来た。説得に見合うだけのものを、私が提示出来れば良いのだが」
「かたたとらコーポレーションは小切手を持って来たぞ」
「金が良いかね。用意出来ないことはないが、君はもっと、価値あるものを望むかと思っていた」
「例えば?」
「例えば。音ノ瀬隼人の、軍部時代に作った恋人の孫の所在」
隼太の顔から笑みが消える。
恭司は息を呑んだ。そんな存在がいたなど、聴いていない。
「例えば、天響奥の韻流、水の奥義の書」
「……あんたは天響奥の韻流に関しては部外者だろう」
「そうだ。だが、劉鳴殿とは旧知の仲。快く承諾してくれたよ」
しばらく、その場には大海が料理に立ち働く音以外、静寂が鎮座した。やがて、隼太が哄笑した。膝を叩き、肩を震わせて、心底可笑しいと言わんばかりだ。
「成程。これが新興と古豪との違いか。音ノ瀬玲一。あんたの土産は、かたたとらコーポレーションの生臭い奴より余程、面白い。良いだろう。音ノ瀬に就いてやる。……じいさんの孫は、コトノハを知っているのか?」
玲一は首を横に振る。
「解らない。我々も存在を知ったのは最近で、まだ接触には至っていないんだ」
「ふうん。おい、恭司。夕飯、食っていけ。俺は今、機嫌が良い。跳ねっ返りのお前の面も、楽しく鑑賞しながら食えそうだ。音ノ瀬玲一。あんたも食って行くか?」
「いや。心遣いは有難いが、妻が準備してくれているのでね」
「愛妻家か。隼人とは偉い違いだ」
恭司は、この展開に驚嘆していたが、結果として隼太が音ノ瀬に就くという事実を心底喜んでいた。宝珠が、より近くなる。楓が泣かずに済む未来があるかもしれない。希望の光が、少しずつ近づいてきていると、そう感じた。
評価ありがとうございます。
暖かいかと思えばひんやりした空気に
戸惑いを覚える今日この頃。
体温調節が肝心ですね。
皆さまもお気をつけください。




