受容する器
寝返り、という古風な言葉が浮かんだ。寺原田は庶務課共々、音ノ瀬の軍門に下ろうと言うのだ。
「部下の方たちも含めた総意ですか?」
「いえ、彼らにはまだ話していません。中には反発する者もいるでしょう。けれど迎合する者も、きっといる筈と僕は踏んでいます」
私は、聖に、それから撫子、芳江にと視線を走らせた。彼らは顎を引く。私に一任するという意思表示だ。私は少しの思案の後、口を開いた。
「寺原田さんのお話はよく解りました」
「それでは」
「庶務課の皆さんとも話し合ってください。その上で、音ノ瀬に来たいという人は迎え入れましょう。保険や給与など細かいことは聖さんから聴いてください。貴方にもご家庭がおありでしょう。それなりの収入も必要でしょうし、私たちが貴方の働きに見合う給与をお支払い出来るかもまだ解りません」
これは半ば言葉の上だけの台詞だった。音ノ瀬には潤沢な資金があり、今更抱える人間の数が数人増えようが負担となるものではない。私には寺原田を試す思いがあった。果たして、寺原田は深く頷いた。
「彼らには僕からよく話し、また、彼らの意見を尊重します。僕の独断専行で動く積りはありません。今日は、音ノ瀬さんに僕らを迎え入れてくださるお気持ちがあるかどうかを知りたくて来たのです」
「堅田社長は貴方を手放したくないとお思いでしょう」
「それは僕を買い被り過ぎです」
「寺原田さんはご自身の価値をお解りでない」
私には解る。かたたとらコーポレーションが貴重な庶務課のまとめ役に、寺原田を選んだ気持ちも理由も。稀にいるのだ。己の大器たることを自覚しない人が。寺原田はその典型のようだ。
ここで初めて寺原田はお茶を何口か飲んだ。咽喉が独立した生き物のようにこくこくと動く。
「……幸せに近い場所に部下を置いてやりたいのです。音ノ瀬さんのもとでなら、それが叶うと思った。この、家に流れる空気に身を浸すと改めて思います。貴方たちは、清い流れに棲む魚だ。爽やかな風に舞い遊ぶ鳥だ。僕はそうした環境をこそ部下たちに与えてやりたい。その為に僕自身が、裏切者呼ばわりされることがあっても、何ら厭うものではありません」
理想の上司像というものがあるのなら、それは寺原田のような人をこそ指すのではあるまいか。私は寺原田の肩に手を添えたい気持ちになった。
「寺原田さんのお望みの通りにいたしましょう」
「それでは」
「ええ。貴方と、貴方の意見に賛同する人たちを、音ノ瀬は歓迎します」
チリンと釣忍が鳴った。運んで来たのは明瞭ではない風で、先行きが不透明であることを暗示している。私は風を慰撫するように、唇に笑みを刷いた。




