脱兎
「はい、もしもし。聖さん」
『そちらはお変わりありませんか』
「撫子さんなら芳江さんと一緒に今日はうちにお泊りですよ」
『そうですか。僕は今晩、こちらで過ごします』
「待てこら」
……切りやがった。
聖は大抵の事柄において私への敬意を忘れることはないが、撫子に関しては例外のようである。撫子と初対面の楓は「うううん、かわいいいいい」の叫びと同時にハグされて目を白黒させていた。一応これでも撫子は、楓を潰さない程度の力加減をしている。もーちゃんは撫子を一目見るなりピャッと飛び上がって姿を消してしまった。
「ええ? 聖様、今日は帰られへんのですかあ?」
「そうみたいです」
「うち、聖様のファンクラブ一番の会員やのにい。あの白髪、ルビーみたいな目、しなやかなお身体……はあ、ペロペロしたい」
「撫子、聖様はこと様のご夫君で副つ家の御当主やぞ」
「解り切ったこと言うなや、芳江。うちはこと様も愛しとんねん。ご夫婦セットでペロペロしたい思うとんねん。これは崇高な愛やで」
「崇高もへったくれもあるかい。不敬や」
芳江の突っ込みがいつまで追い付くだろうか。
「あ、こと様! うち、清い身体です。いつでも心の準備は出来てますさかい」
「はあ」
何の?
何だろう、この、撫子がいるとあらゆる情緒がぶっ飛ばされる感じ。秋のすだく虫の音とか、水の匂いの混じった空気の感触、涼やかな闇色など、しっとりした風情がことごとく粉砕される。
戦力としては申し分ないのだけれど。
誰か。誰か助けてください。
折よく呼び鈴が鳴る。私、出るねと言って逃げた楓の状況判断はとても正しい。
姿を見せたのはどこかの鼈甲ぶち眼鏡によく似た容姿の男性だった。
「御当主。ご無沙汰いたしております」
「お久し振りですね。藤一郎さん」
秀一郎の兄は、涼やかな微笑を見せて視界に撫子を捉え、反射的に目を逸らし、またちらりと見てまた目を逸らした。訪問のタイミングを間違えたと察したらしい。果たして撫子はど、ど、ど、という足音で藤一郎に迫り、手を組んで身体をくねくねさせた。
「いやん、藤一郎さんですやん。相変わらず麗しゅう。撫子の操はこと様ご夫婦に捧げてますけど、いつでも清い身体ですねん。どえっふっふっふ」
「はい」
それ以外、答えようがないと言った感じだ。撫子と藤一郎が結婚したらすごいことになりそうだな。
私は藤一郎を人身御供に差し出して、傍観しながら他人事のようにそう思った。宝珠の話はどこへ行った。
ブクマありがとうございます!
撫子旋風がコトノハ薬局を席巻しています。
作者自身、何だろうこの人、と思いつつ書いております。
どうぞお見限りになられませんように。




