持たざる人々
左胸で妙な鈍い音がした。
目前にある祐善の顔も怪訝の表情を浮かべている。確かに今、秀一郎の命は刈り取られたと思ったのに。隼太も軽く目を瞠っていた。
秀一郎の命を救ったのは、スーツの上着内ポケットに入れていた、一本の万年筆だった。祐善の必殺の一撃を諸に受けた万年筆は真っ二つに割れ、黒いインクが白い布地を汚した。それはことが、秀一郎の成人祝いに贈った万年筆だった。お守りのように、彼はそれを片時も離さず持ち歩いていた。
そして実際、蒔絵技法の使われた美麗な万年筆は、持ち主の窮地を救った。
「生き汚い若造だ。余程、命が惜しいと見える」
「惜しいですよ。まだ若い身空ですからね。嘗て貴方もそうであったように」
祐善が右手二本指を立てて円を描くと、青い炎がポツポツと灯った。剣戟に加え陰陽術の攻撃を重ねてくる積りらしい。秀一郎は深く息を吐いた。命拾いはしたものの、軽傷ではない。身体が悲鳴を上げているのも解る。だが秀一郎は刀の柄を更に強く握り締めた。
青い炎がてんでばらばらに浮遊し、秀一郎に迫る。こちらならまだ対処の仕様がある。
「消」
コトノハにより消火されたこれらの炎は、言わば祐善が仮初に命を与えたものだ。だからこそコトノハの処方も有効となる。
「成程。コトノハ。侮れん」
祐善が狂暴な笑いを見せた。なぜか空虚を感じさせる笑みだった。秀一郎はその時、祐善を〝理解〟した。彼はもう、とっくの昔に死んでいるのだ。
肉体ではなく、心が。
だから春の温和も夏の緑陰も秋の紅葉も冬の清冽も、彼の心を動かさない。
そして人の情も。
情に棹差せば流される。情を介さない祐善に同情すれば秀一郎は死ぬ。
「紫具羅」
祐善が呼ばわると、見事な銀色の毛並みの、紫色の目をした狼が現れた。勇壮でありながら美しい式神は命を待つように主の顔を仰いだ。
「他に潜り込んでいる鼠共を狩って来い」
紫具羅は祐善の言葉を聴き終えると軽やかに座敷を駆け抜けて行った。秀一郎に、紫具羅を止める余裕はなかった。ことと聖が共にいれば良いと思う。聖であればあの式神も倒せる。そして剣の巧者である聖であれば、祐善相手にここまで苦戦しなかっただろう。
聖であれば。
秀一郎は、知らず心が弱っていた自分を知る。不甲斐ない。その例えは、もうこれまで何百回と繰り返して克服した筈ではなかったのか。秀一郎は自らの傷口に爪を立てた。
「ぐ……っ」
激痛に思わず声が漏れる。己を鼓舞するには少々荒っぽい手段だったようだ。祐善も理解しかねるといった目で秀一郎を見ている。そんな祐善に、額に脂汗を滲ませ、決死の力で笑顔を作りながら秀一郎は言った。
「宴はまだ終わっていませんよ。祐善さん。さあ、続けましょう。見届ける花ならそら、」
秀一郎が視線を隼太に流す。
「そこにある」
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