天変不変
私は口を薄く開いたまま、聖に何を答えることも出来なかった。
赤い目はただ、そんな私を見ていた。
そうしてどれだけ経ったか。
「憐憫は無用ですよ、御当主。参りましょうか」
聖は誤解している。
それを訂正せぬまま、私たちは歩き始めた。
二人でスーパーに向かっていると、買い物袋を持って楓と手を繋いだ俊介が道を戻って来た。
無事だ、楓――――。
聖がおっとり構えている以上は大丈夫だろうと思ったものの、元気な顔を見るとほっとする。
楓は俊介の手を振り解いて、走って来て私に抱きついた。
努力はしているものの、まだ馴染めない大人と二人で心細かったのだろう。
両腕で受け止めた私が落とした日傘を、聖が拾う。
「お帰りなさい、楓さん。追いつけなくて、すみませんでした」
楓は頭をぶんぶんと左右に振って、顔を上げた。
「お買い物、ちゃんと出来たよ、ことさん!」
「ありがとうございます。お蔭で助かりました」
顔を寄せ、楓に微笑みかけてから、俊介を見る。
「山田さんもありがとうございました。……何もありませんでしたか?」
携帯を返しながら二重の意味で礼を言って尋ねた。
「はい、特には。強いて言うなら、俺が野菜売り場で、何がどこにあるのか解らなくてちょっとうろついたくらいで。あ、俺って暑がりですかね?」
「藪から棒に何ですか」
「今日って暑いかな~って思ってたんですけど」
「朝晩は別にして、暑いでしょう」
「ですよねえ」
一人で首を傾げている。
訳の解らないことを言う男だ。
それから四人で帰宅し、焼き茄子と鰤の塩焼、とろろ昆布を浮かせた簡単な吸い物で昼ご飯にした。
聖がうちにいる間、定期的に一族から食糧が届けられるので、食材には困らない。作りたいレシピが先立つ場合には、今回の柴漬けのように買い出しに行くことになる。
鰤の塩焼には酢橘を絞る。
生臭さを紛らわせてさっぱりさせる為だ。柑橘系にはこんな使い道もある。
鰤の硬い身を崩し口に含み、塩気を味わうと、ほかほかの白ご飯も進む。
「酢橘とかぼすってどう違うんですかね?」
例によってまたそんなことを訊いてくるのは俊介だ。
「これが酢橘です」
鮮やかに青々しい半球をずいと奴の目の前に遣る。
「いや、違いが……」
「これが酢橘です」
「……」
よし、黙った。
私が何でも知っていると思うなよ。
「僕はね、ここにいる誰より長く生きているけど、秀一郎君は大人だと思うよ」
聖がそう言ったのは、縁側で俊介と並んで座っている時だった。
着替えを持たない彼は、ことの父の持ち服から、青緑で、ともすれば玉虫色の光沢を見せる着流しを着て生成りの帯を締めていた。
ただでさえ目立つ風貌の彼がそのような服装をすると、非現実感がより強まる。
浮遊感を覚える。
不思議な少年だと俊介は思っていた。
ことの浮世離れさえ上回っている。
「秀一郎さんは大人だと、俺も思いますけど」
「君が考えている以上にね。御当主を僕と君とに任せ、自分は距離を置いて見ている。自分の心を殺して最善を尽くそうとする男を、どうして称えずにいられる? 彼の健気を評価しないのは愚かだ。御当主とて、本当は解っておられる」
庭に下りて、紫蘇の花が咲いたとはしゃぐ楓に寄り添うことを、聖は目を和ませて眺めている。
「僕も君も、彼に恥じぬようであらねばならない」
秋も深まり、楓の育てる楓はまだ紅葉しないが、もう季節を無視して鳴く蝉さえ消えた。
「羞恥に染まるは葉だけで良い」
「――――聖さんは。聖さんも、」
「手が痛くない?俊介君」
「あ……、」
俊介は自分でも気づかぬ内に、拳をきつく固めていた。
「全て捧げてるよ」
「え?」
「御当主に。もう、随分昔から。望まれなくたって、臓腑でも魂でも」
差し出すよ、と言って聖はひっそり笑った。
睫が儚く微細に光り揺れる。
もう時節は過ぎたのに、なぜか俊介は日陰に咲く桔梗を思い出した。
今日は風が吹いている。
加えてこの距離。
聖のコトノハは容易に、私の耳に届いた。
「臓腑なんて要らない……」
ぼそ、と呟く。
「え?」
「いえ、小さくて可愛い花ですね」
私は意識を戻して楓に語りかける。
紫蘇の葉は往時より小振りになって緑は薄まり、白い小花が天を向いて咲いている。
楓が小さな手でそおっと小花を撫でる。
「元気にね。頑張ってね」
一生懸命囁く姿に、こちらが切なくなる。
「もう葉も終わりです。水に差して、お部屋でコトノハを掛けてあげても良いでしょう」
「ほんと?育てる!」
「……」
コトノハを掛けても自然の摂理に背く程、永らえる花ではない。
それでも楓は毎日語りかけるのだろう。
自然界に在るものを愛でるコトノハは無垢で、穏やかな慈愛に満ちている。
対して、人の思慕、想いの熱を籠めたコトノハは、時に痛いくらいだ。
聖。
桔梗の花はまだ咲いている。
私の中に、咲いている。あの頃のまま変わらない。
染まりしコトノハひとひら秘めて。




