恋うる鳥の囀りは
そのコトノハを風が運んだのは全くの偶然だった。
音ノ瀬、秀一郎さん……
菅谷桜の声だ。
にしてもこの声色はまるで。
私は青い空を見上げた。青のキャンパスに白がぽとりぽとりと落ちている。蝉は相変わらず大合唱だ。そんな中で、桜の声はとても幽かで小さな囁きで、私の耳が捉えたのが不思議な程だった。先日、傘を貸したとは言っていた。それがきっかけとなったのだろうか。私はしばし、彼女の想いを探るように瞑目した。彼女の、秘めた想いを知ってしまったことに僅かな罪悪感もあった。
その旧家は近所の外れにあるどっしりした門構えの和風建築だ。
夜な夜な幽霊が出ると怯える家人の話から、宝珠が絡む可能性を感じて、私は聖と共にやって来た。うちより余程大きい造りだ。菅谷に通じるものがあるかもしれない。中に入ると土間があり、高い天井には太い梁が通され外より涼しい。
「この、盃を入れた戸棚の前に、着物を着た女の幽霊が毎晩出るんです」
心細そうな顔で言うのは旧家の主の有本さんだ。
台所にある戸棚の扉は硝子張りで、中には切子細工から漆塗りから逸品揃いの盃が並んでいる。そして成程、宝珠の気配がある。蒔絵の施された美麗な黒い盃。
「その幽霊は何かこちらの方に危害を加えたりしますか?」
「いいえ。只、この戸棚をじっと見るだけです」
それくらいなら害はない。しかし今夜も徹夜となりそうだ。私と聖は心尽くしの夕食を頂き、台所で待機した。夜の十二時を回った頃だろうか。ぼう、と青い明かりが点った。水色と緑色の絶妙に入り混じった色合いの打掛を纏った、日本髪の女性が立っている。戸棚の硝子を愛おし気に撫でる。私たちのことは眼中にないらしい。
「何か心残りがおありですか」
私がそっと差し出すように尋ねると、彼女と初めて視線が合った。
〝わたくしは不義の罪で処された者。生きている間はこの、蒔絵の盃であの方と酌み交わしたのです〟
雀が餌を啄む様子が蒔絵で描かれた、愛らしくも美しい盃だ。
「この盃を頂戴いたしたく思うのですが」
女性の目がゆらりと動く。少しの間、彼女は黙考したようだった。やがて、頷く。
〝構いません。これがこの家にあっては、わたくしもいつまでも成仏出来ませぬゆえ〟
「貴方が情を通じたというのは……」
〝この家の、四代前の当主です。あの方もまた、断罪されました〟
その昔。
不義密通は、死罪を言い渡される程の重罪だった。幾ばくかの金子を積めば、免れることもあったと聴くが。
私は蒔絵の盃をそっと捧げ持った。
女性の霊はそれを凝視していたが、やがて吹っ切るように微笑むと、煙のように掻き消えた。
「恋というのは厄介ですね……」
「厄介ですよ」
聖が相槌を打つ。
菅谷桜の声が蘇る。秀一郎は彼女を振り向くだろうか。
しかし私には、それは果てしなく低い賭けのように思えたのである。何もよりによってあの男に惚れなくても良いだろうに。
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