白い烏の行水
「珍しいですね。秀一郎さんが雨に濡れるなんて」
タオルを渡しながら玄関口で私はそう言った。風の知らせなどを頼りに、雨天の時はいつも周到に傘を持っている彼だ。濡れた姿は珍しい。もう少し色をつけてやるなら、雨も滴る良い男である。
「麗人濡れるに忍びなく」
「桜さんですか? 近くにいらしてたんですね」
廊下を客間に向けて歩きながら私があっさり言うと、秀一郎は苦笑した。
「よくお解りで」
「限られてますからね。貴方の周囲は」
客間では聖がもーちゃんを抱っこして胡坐を掻いていた。
どうも、もーちゃんはうちのマスコットキャラクターになりつつある。
「やあ、秀一郎君。水も滴る良い男だね。風呂を沸かそうか」
私の心中における賛辞を聖は朗らかに笑みながら口にした。
「有難う。風呂は嬉しいな。君の着物を貸してくれるかい」
「良いよ」
その時ちらりと聖が私に視線を向けたのが解った。聖の着物の大半は、私の父が着ていたものだった。今、その持ち主は聖である。だから良いのだと私は目顔で頷いた。
梅昆布茶が良いかな。頂き物の、バターたっぷりのクッキーがあるから、それを添えよう。塩気と甘さで丁度良いだろう。聖と共に座卓の上を用意している内に、秀一郎が風呂から上がった。
「烏の行水ですね」
「兄たちからもよく言われます」
黒に縦縞の入った単衣を着た秀一郎は、梅昆布茶を飲んで一息吐いたようだった。
「ままならない世の中ですね」
「貴方のように多くをお持ちの方も仰いますか」
秀一郎は形ばかり口角を吊り上げた。
「僕は恵まれていると思いますよ。家族、友人、仕事。最も求めるものとて手に入りませんが、それでも幸せと思える。けれど、菅谷桜さんは……。如何にも危うい。華奢な背骨がぽきりと折れて倒れ伏してしまいそうだ」
「麒麟さんに然るべく注意喚起しておきましょう」
秀一郎が首を横に振る。
「難しいでしょうね。事は菅谷という鳥籠の中で起きている。真実、変えようと思うなら、麒麟君が当主の座に就き、改革の斧を振るうしかありますまい」
雨音が強くなった。
改革。
聖は昔、その野望を抱いたことがある。他ならない私の為に。
若者は、切歯扼腕し、手を太陽に伸ばし、荒い呼吸で呻くのだ。己の生を全うせんとして。
菅谷祐善。嘗ては彼もそうではなかったか。親の二の轍を踏もうとしているとなぜ気づかない。いや、彼にとってそのような些事はどうでも良いのだ。亡くなった、彼が愛した唯一の女性だけが彼を縛っている。その子らに愛情の一滴も注がないのに。愛情とは時に残酷である。
今年も残すところ僅かとなりました。
身体の許す限り元旦まで突き進む積りですので、どうぞよろしくお願いいたします。
コトノハの幸いがありますように。




