心の雫
パン、という音が鳴り、桜は倒れた。手を挙げた祐善はその手を下ろした。
「桜!」
昴が支え起こす。その昴の肩をも祐善は蹴りつけた。
「お前たちは一体、何をしている? 音ノ瀬を屠る訳でもなく、宝珠の収集も芳しくない。そこまで間の抜けた人間に育てた積りはないがな」
育てられた記憶もない、と桜は心の中で反駁する。
「下がれ、当分は顔も見たくない。宝珠を持って来るまでその顔、見せるな」
祐善の声は冷酷で桜と昴を凍り付かせる。この父の為に尽くしているのだと思うと、情けない思いすらしてくる。桜はことを思い出す。真摯な瞳。温かな声。彼女のような人が当主であれば、音ノ瀬も安泰だろう。桜を支えて退室した昴は、アイスノンで妹の殴られた頬を冷やした。
「大丈夫か、痛いか」
くすり、と桜が笑う。
「大丈夫じゃないし、痛いわ」
「……だよな。親父も年々、我慢が効かなくなっているな」
「前からよ。前からああだったわ」
「お前のことは気に入っていただろう」
「お気に入りの人形だから、いくらでも折檻して良いと思っているのよ」
昴が眉をひそめる。
「……もう少し辛抱してくれ、桜。俺が当主になれば、お前を自由にしてやる」
「ええ」
ぼんやりと昴に返事をしながら、きっとそんな日は来ないのだろうと桜は考えている。祐善には昴に当主の座を渡す積りはない。そして自分は自由を知らず、鳥籠から解き放たれても自然淘汰され死ぬだけ。何てみじめな一生だろう。全てはこの菅谷に生まれてきたばかりに。外は曇り、雨がぱらついていた。桜は昴と別れ、傘も持たずに外に出た。絽の着物が次第に水分を吸って重くなる。
どこをどう歩いたのか自分でも解らない。
気づけば音ノ瀬家の近所まで来ていた。ふ、と天からの水が止む。
振り返ると秀一郎が桜に傘を差しかけていた。
「濡れますよ」
「ええ、存じております」
この遣り取りがどことなく滑稽に思えて、桜は忍び笑いを漏らした。
「頬が腫れていますね」
「……」
「菅谷祐善ですか」
これを聴いた時、桜の内側から沸き起こったのは怒りだった。父を呼び捨てにすることが許せなかった。また、そう感じる自分自身を憐れむ感情もいくばくかあった。
「内輪のことです」
「確かに僕が口出しする領分ではありませんね。この傘は持っておいでなさい」
「それでは貴方が濡れてしまいます」
「僕はことさんの家に寄らせてもらいますから」
ことさん、という親し気な呼び方に、なぜか胸がちりと痛んだ。濃紺の傘を桜に持たせた秀一郎は、そのまま足早に音ノ瀬家へと向かって行った。
振り向かないだろうか。
そう考える自分を、桜は奇妙に思った。
白い後ろ姿が小さくなるまで、彼女はその場所に佇み一歩も動かなかった。
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一段と冷え込む日、コトノハが温もりとなれば幸いです。




